4回目の哨戒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:20 UTC 版)
「U511 (潜水艦)」の記事における「4回目の哨戒」の解説
「U511」としての最後の出撃は、日本への航海となった。 「U511」は「U1224」とともに、日本海軍によるインド洋での通商破壊実施を望んだドイツがそれらをモデルとして通商破壊戦用の潜水艦を建造してもらうため譲渡されることとなった。この譲渡に際して、無償と理解した日本側と、有償だと考えていたドイツ側との間で齟齬が生じたが、最終的にヒトラーが「贈り物だ」といったことで落着した。 通常の乗員の他に、東京へ向かう新任のドイツ大使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーやベルリン駐在日独伊三国同盟の軍事委員の野村直邦海軍中将、ドイツ人科学者や技術者が搭乗した。1943年5月10日、フリッツ・シュネーヴィント艦長の指揮の下、ロリアンを出航した。大西洋を通り喜望峰を回りインド洋に入った。インド洋にて米商船2隻を撃沈した。 最初の攻撃は6月27日午前9時42分に行われた。南緯29度00分 東経50度10分 / 南緯29.000度 東経50.167度 / -29.000; 50.167のマダガスカル島沖で、空船でモンバサからバイーアへ単独航行中の米リバティ船「セバスチャン・セルメニョ」(Sebastian Cermeno、7,194トン)へ向け魚雷を発射。セバスチャン・セルメニョの4番船倉後部、5番船倉前部に魚雷1本ずつが命中して航行不能となり、3人が死亡した。生存者は、5隻の救命艇で船から脱出した。雷撃の10分後に、セバスチャン・セルメニョは沈没した。U-511は浮上して、生存者の尋問をしてから海域を離れた。救命艇のうち4隻は連合国の船に救助され、1隻はマダガスカルにたどり着いた。 2回目の攻撃は7月9日だった。5644トンの弾薬と一般の貨物を積んでフリーマントルからコロンボへ単独航行中の米リバティ船「サミュエル・ハインゼルマン」(Samuel Heintzelman、7,176トン)を雷撃した。U-511は魚雷発射後に潜航し、結果を直接観測はしなかったが、水中の爆発音が聞こえた。海面には船の姿はなく、破片が浮いているだけだった。乗員75名は全員死亡した。「サミュエル・ハインゼルマン」は亡失認定され、当時は日本の攻撃により沈没したと思われていた。9月30日、船の残骸がモルディブ沖で発見された。 同年8月7日、U-511は90日の航海を終えて日本本土の呉に入港した。
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