第4の哨戒 1942年10月 - 11月
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「トートグ (潜水艦)」の記事における「第4の哨戒 1942年10月 - 11月」の解説
10月8日、トートグは4回目の哨戒でインドシナ半島方面に向かった。この頃は魚雷が不足しており、この哨戒では魚雷代わりに搭載した機雷の敷設任務も命じられていた。10月20日、トートグはシブツ海峡北方で折りからのスコールの中、薄暗い船影を発見した。トートグは用心して潜航し確認したところ、それは75トン程度のスクーナーであることが分かった。トートグは浮上し、スクーナーに向けて搭載砲を一発放つと相手は停船し、国際信号旗を掲揚した。スクーナーには日本人と4名のフィリピン人の乗組員がおり、フィリピン人は泳いでトートグにたどり着き、のちにアメリカ海軍に入隊した。一方、日本人はトートグに移る事を拒否し、ボートで逃げ出した。トートグはスクーナーの船尾に三発の砲弾を撃ち込み航行不能にしたあと、日本人のボートに水を与えた上で一番近い陸に向かうよう指示した。トートグはスクーナーを沈めるための射撃を行うと、スクーナーの中から新手の日本人が現れて、船体のあらゆる所によじ登った。トートグは十発ほど撃ち込んだあと、残骸を置いてその場を去った。10月27日、トートグはセシル・デ・メール島近海で暗闇の中で貨客船を発見し、しばらく追跡したあと魚雷2本を発射。魚雷は命中し、相手は船尾から火災を発生させ、数分後に沈んでいった。この相手は、元は中国船 "Pei An" だった北安号(北方航業股份有限公司、3,585トン)であろうと考えられた。北安号は秦皇島から基隆、香港を経てサイゴンに向かっていたが、10月24日に香港を出港してからその消息を絶っていた。翌日にも護衛艦を伴った商船を発見し、雷撃したものの失敗。反撃を受けた。11月2日、トートグは北緯11度10分 東経108度45分 / 北緯11.167度 東経108.750度 / 11.167; 108.750付近のインドシナ半島パダラン岬近海に機雷を敷設。任務を果たしたトートグは帰路についた。11月11日、トートグは北緯01度19分 東経119度40分 / 北緯1.317度 東経119.667度 / 1.317; 119.667の地点で特設敷設艦新興丸(橋本汽船、6,479トン)を雷撃。しかし魚雷は命中せず、トートグは深度深く潜航して避退した。付近の第5号駆潜艇が反撃し、爆雷を合計20発投下。うち5発がトートグの至近で爆発し、甚だしい浸水が発生した他、爆発で各機器に異常が発生。しかし、トートグはなんとか攻撃に持ちこたえて沈没を免れた。11月21日、トートグは44日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がウィリアム・B・「バーニー」シーグラフ少佐(アナポリス1931年組)に代わった。
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第4の哨戒 1942年10月 - 11月
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「タンバー (潜水艦)」の記事における「第4の哨戒 1942年10月 - 11月」の解説
10月12日、タンバーは4回目の哨戒でインドシナ半島方面に向かった。折からの魚雷不足により、この哨戒では何本かの魚雷の代わりに機雷を搭載した。11月2日、タンバーはトンキン湾と海南島間の海南海峡に機雷を敷設した。翌11月3日、タンバーは海南島北西岸で貨客船筑後丸(東亜海運、2,444トン)を発見。まず魚雷3本を発射したが命中せず、30分後の2度目の雷撃で2本発射し、1本が筑後丸の中央部に命中。筑後丸は船尾から沈んでいった。11月6日にはヴィシー・フランスの国旗を掲げた貨客船に対し魚雷2本を発射したが、魚雷は途中で消えて命中しなかった。11月10日にはスールー海で非武装のサンパンを発見し、乗組員を捕虜とした上で砲火でサンパンを沈めた。この哨戒では1隻10,000トンの戦果を挙げたと判定された。11月21日、タンバーは38日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。備砲が51口径5インチ砲に換装された。
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