第4の哨戒 1942年2月 - 4月
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「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第4の哨戒 1942年2月 - 4月」の解説
2月15日、シーウルフは4回目の哨戒でジャワ海およびロンボク海峡方面に向かった。2月19日朝、シーウルフはバドゥン海峡で第八駆逐隊(阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦大潮、朝潮、満潮に護衛された2隻の輸送船、バリ島攻略部隊を乗せた2隻の陸軍輸送船、笹子丸(日本郵船、9,258トン)と相模丸(日本郵船、9,264トン)を発見。輸送船に対して魚雷4本を発射し、1隻への損害は確認できなかったが、もう1隻は船尾を下に右舷に傾いたと報告された。シーウルフと相模丸は、後にもう一度相見えることとなる。一週間後の2月26日、シーウルフは後部発射管から貨物船に対して魚雷を発射し、ブリッジ前方に一発が命中したのを目撃した。その後護衛の駆逐艦からの爆雷攻撃を回避するため潜航した。シーウルフは3月に入るとジャワとクリスマス島の間を哨戒した。3月31日、シーウルフはクリスマス島沖に接近し、クリスマス島占領作戦のため停泊中の日本海軍艦艇群を発見。この時点でシーウルフの持ち魚雷は9本であり、嗜好品は底を突きかけていた。シーウルフは2度にわたって計7本の魚雷を発射したがいずれも命中せず、残り魚雷は2本となった。翌4月1日夕方、シーウルフは3度目の攻撃で軽巡洋艦那珂に接近。距離1,000メートルから最後の魚雷2本を発射。うち1本が那珂の右舷缶室に命中、大きな損傷を与えた。那珂は修理のための帰国を余儀なくされ、戦線から一年近く離脱した。シーウルフは戦果に気づくことなく、駆逐艦朝雲と山雲、第36号哨戒艇から7時間半に及ぶ爆雷攻撃を受けることとなった。日本側では、「勇敢ナル」この攻撃を「英国潜水艦」によるものと判断していた。4月7日、シーウルフは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。一連の戦闘行為により海軍殊勲部隊章を受章した。
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