第4の哨戒 1942年2月 - 4月とは? わかりやすく解説

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第4の哨戒 1942年2月 - 4月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 11:07 UTC 版)

シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第4の哨戒 1942年2月 - 4月」の解説

2月15日シーウルフ4回目の哨戒ジャワ海およびロンボク海峡方面向かった2月19日朝、シーウルフバドゥン海峡第八駆逐隊阿部俊雄大佐所属駆逐艦大潮朝潮満潮護衛された2隻の輸送船バリ島攻略部隊乗せた2隻の陸軍輸送船笹子丸(日本郵船、9,258トン)と相模丸日本郵船、9,264トン)を発見輸送船に対して魚雷4本を発射し、1隻への損害確認できなかったが、もう1隻は船尾を下に右舷に傾いたと報告された。シーウルフ相模丸は、後にもう一度相見えることとなる。一週間後の2月26日シーウルフ後部発射管から貨物船に対して魚雷発射しブリッジ前方一発命中したのを目撃したその後護衛駆逐艦からの爆雷攻撃回避するため潜航したシーウルフ3月に入るとジャワクリスマス島の間を哨戒した。3月31日シーウルフクリスマス島沖に接近しクリスマス島占領作戦のため停泊中の日本海軍艦艇群を発見。この時点シーウルフ持ち魚雷は9本であり、嗜好品は底を突きかけていた。シーウルフ2度わたって計7本の魚雷発射したいずれも命中せず残り魚雷は2本となった。翌4月1日夕方シーウルフ3度目攻撃軽巡洋艦那珂接近。距離1,000メートルから最後魚雷2本を発射。うち1本が那珂右舷缶室に命中大きな損傷与えた那珂修理のための帰国余儀なくされ、戦線から一年近く離脱したシーウルフ戦果気づくことなく駆逐艦朝雲山雲第36号哨戒艇から7時間半に及ぶ爆雷攻撃を受けることとなった日本側では、「勇敢ナル」この攻撃を「英国潜水艦」によるもの判断していた。4月7日シーウルフ51日間行動終えてフリーマントル帰投一連の戦闘行為により海軍殊勲部隊章受章した

※この「第4の哨戒 1942年2月 - 4月」の解説は、「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の解説の一部です。
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