日本への航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:41 UTC 版)
日本への帰国を希望した4人に加えて、ロシアに残ることを希望した善六も通訳として4人に随行することになった。またロシアから日本への使節としてニコライ・レザノフがこれに同行した。津太夫やレザノフが乗り込んだのは、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが艦長を務める軍艦ナジェージダ号で、ネヴァ号がこれに随伴した。1803年8月4日に2隻はフィンランド湾に浮かぶクロンシュタットから出航した。レザノフの日本への派遣の目的はロシアと日本の通商を実現することにあり、若宮丸乗組員の送還はその交渉の材料だったとされる。また、この艦隊には博物学者のゲオルク・ハインリッヒ・フォン・ラングスドルフも同乗した。 2隻の艦隊はコペンハーゲン、イングランドのファルマス、カナリア諸島のテネリフェ島を経由し、大西洋を西へ横断した。その後、艦隊はブラジルのサンタカタリーナ島、南アメリカ大陸南端のホーン岬を回り、マルキーズ諸島を通って太平洋を北西へ進んで、カムチャツカ半島のペトロパブロフスクに寄港した。この航海の最中、レザノフは日本との交渉に備えて善六から日本語を学んでこれを辞典とした。この辞典には3474語の日本語が収められ、当時の石巻方言がよく表れている。 ペトロパブロフスクで通訳の善六は残留させられることになった。ロシアに帰化してロシア正教会の信徒になっていた善六の存在が、日本との交渉で問題になりかねないという判断によるものだった。ペトロパブロフスクからはナジェージダ号1隻が日本へ向かい、文化元年9月6日(1804年10月9日)に長崎の伊王崎に到着した。 ロシアからやってきたレザノフの交渉に直接対応したのは長崎奉行所で、奉行所は江戸幕府に伺いを立てたが、幕府の返答は曖昧だった。この間、若宮丸乗組員4名は船に留め置かれ、文化元年12月17日(1805年1月17日)に太十郎が自殺未遂事件を起こした。結局、文化2年3月6日(1805年4月5日)(文化2年3月7日とも)に長崎奉行の肥田頼常からレザノフへ、通商を認めないという幕府の正式文書が渡された。このことは後の文化露寇の遠因ともなったと言われる。若宮丸乗組員4名は文化2年3月10日(1805年4月9日)に徒目付の増田藤四郎によって引き取られ、レザノフを乗せたナジェージダ号は3月19日(3月20日とも)に長崎から出航した。
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