マルキーズ諸島とは? わかりやすく解説

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マルキーズ‐しょとう〔‐シヨタウ〕【マルキーズ諸島】

読み方:まるきーずしょとう

《(フランス)Marquisesマルケサス諸島フランス語名


マルキーズ諸島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/27 07:57 UTC 版)


マルキーズ諸島の位置
南西の青色の島はタヒチ島
ヒバオア島のティキ像
マルキーズ諸島の旗

マルキーズ諸島(マルキーズしょとう、マルケサス諸島とも、フランス語: îles Marquises英語: Marquesas Islands)は、南太平洋にあるヌクヒバ島ヒバオア島など12の火山島とひとつの環礁(Motu One)からなる諸島。フランス領ポリネシアの一部を成し、タヒチ島からは北東に約1,500キロメートルの海域に位置する。

概要

サンゴ礁はほとんどなく、険しい海食崖を示す。世界のどの大陸からも、最も離れている諸島となっている(アメリカ大陸のカリフォルニアまで5,500キロメートル、ニュージーランドまで5,800キロメートル、日本まで9,800キロメートル)。

先住民はポリネシア系で、先住民の言葉ではこの島々が「人間の土地」、「テ・フェヌア・エナナTe Fenua Enana」(北マルキーズ語)もしくは「テ・フェヌア・エナタTe Fenua Enata」(南マルキーズ語)と呼ばれる。

約4,000年前に台湾島周辺から南下したポリネシア民族の祖先が、メラネシア系の民族から逃れて、約2,000年前にサモアトンガを出発し、3,000キロメートル以上の航海の後、未踏であったこの諸島を最初に発見したとされる。その後、ポリネシア人はこのマルキーズ諸島を拠点にして、トゥアモトゥ諸島ソシエテ諸島イースター島ハワイ、そして最後にニュージーランドの2島を発見して、ポリネシア三角圏が出来上がったとされる[1]

1595年7月にスペインの探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラが西洋人として初めて来航し、当時のペルー副王婦人(「侯爵夫人」=Marquesa)にちなんで「マルケサス諸島」と名付けた(仏語は「Marquise」)[2]。その後、1842年フランス領となった。以降、欧米人の捕鯨の漁夫による暴力や、彼らが持ち込んだ病気などにより人口が激減した(19世紀末の約10万人から、1920代には約2,000人まで減少した)[3]

現在は、総面積は約1,240平方キロメートルにして人口は8,064人。中心地はヌク・ヒバ島のタイオハエと、ヒバ・オア島のアトアナ。主な経済はコプラバニラタバコの輸出。

画家ゴーギャンはヒバオア島で没した。シャンソン歌手のジャック・ブレルはヒバオア島で晩年を過ごし、ポール・ゴーギャンの近くの墓で葬られている。ハーマン・メルヴィルの小説『タイピー』はヌクヒバ島のタイピー渓谷が舞台である。

マルキーズ諸島の島々

マルキーズ諸島は北部と南部とに分かれており、全部で12の火山島と1つの環礁(Motu One)からなる。

諸島

マルキーズ北部

ウア・フカ島
  • Motu One
  • ハトゥタア島
  • エイアオ島
  • Motu Iti
  • ヌク・ヒバ島
  • ウア・フカ島
  • ウア・ポウ島

マルキーズ南部

ヒバ・オア島
  • ファトゥ・フク島
  • ヒバ・オア島
  • タフアタ島
  • Moho Tani
  • ファトゥ・ヒバ島
  • Motu Nao

世界遺産

テ・ヘヌア・エナタ - マルキーズ諸島
フランス
英名 Te Henua Enata – The Marquesas Islands
仏名 Te Henua Enata – Les îles Marquises
面積 345,749 ha
(緩衝地帯 6,841 ha)
登録区分 複合遺産
登録基準 (3), (6), (7), (9), (10)
登録年 2024年
第46回世界遺産委員会
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

2024年の第46回世界遺産委員会で登録された。フランスの世界遺産としては2件目の複合遺産となった。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
  • (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
  • (9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
  • (10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

脚注

  1. ^ Société des Études Océaniennes刊行『Bulletin de la Société des Études Océaniennes』315号 & 316号(『オセアニア学会誌』、Tahiti)・2009年、Légendes de migrations et de découvertes d’îlesISSN 0373-8957
  2. ^ Spate, O.H.K. (1979) The Spanish Lake. p.121, (Second Edition 2004) Australian National University
  3. ^ Société des Études Océaniennes刊行『Bulletin de la Société des Études Océaniennes』353号 & 354号(『オセアニア学会誌』、Tahiti)・2021年1 & 8月、Maladies, épidémies et pandémie en Polynésie et en OcéanieISSN 0373-8957

外部リンク

座標: 南緯9度27分16秒 西経139度23分20秒 / 南緯9.45444度 西経139.38889度 / -9.45444; -139.38889


マルキーズ諸島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 20:22 UTC 版)

ポール・ゴーギャン」の記事における「マルキーズ諸島」の解説

ゴーギャンは、最初にタヒチパペーテ訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器見て、マルキーズ諸島に行きたいという思い持っていた。しかし、実際のマルキーズ諸島は、太平洋島々中でも最も西欧病気(特に結核)で汚染され島々であり、18世紀には8万人いたという人口当時4000人にまで落ち込んでいた。またタヒチと同様西欧化され、既に独自の文化失っていた。 ゴーギャン1901年9月16日ヒバ・オア島着き、マルキーズ諸島の政庁があるアトゥオナに住み始めた。アトゥオナはパペーテよりは開発遅れていたが、汽船定期便があった。医師はいたが翌年2月パペーテ去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のグエン・ヴァン・カムと、プロテスタント牧師医学学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人親しくなった。ゴーギャンは、ミサ欠かさず通うことで地元司教機嫌をとってから、町の中心部カトリック布教所から土地買い取った司教ジョセフ・マルタンは、当初タヒチゴーギャンカトリック側を支持する言論活動行っていたことから、ゴーギャン好意的に振る舞ったゴーギャンはこの土地2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真飾られていた。初めの頃、この家にはポルノ写真見よう多く地元住民詰めかけた。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンはその上司教とその愛人噂され召使当てこすった2体の彫刻階段前に置いたり、カトリックミッション・スクール制度批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化したゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒通学義務がないと主張し、これによって多く女生徒学校に行かなくなってしまった。その中の1人14歳少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を妻とした。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャン毎日看護してやらなければならず、重荷であった。それでも、彼女はゴーギャンとの同居選んだ1901年11月までに新居設け、ヴァエホ、料理人2人召使のペゴー、1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャン制作専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20キャンバス送っている。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しモチーフを見つけることができると思うと書き送っている。タヒチ時代テーマ避けて風景画静物画人物の習作取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープまとったマルキーズの男』、『未開物語』という3作品制作している。 1902年には、ゴーギャン健康状態は再び悪化し、足の痛み動悸全身衰弱といった症状悩まされた。9月には、足の怪我痛み激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった視力悪化し最後自画像では眼鏡をかけている。 『扇を持った若い女1902年フォルクヴァンク美術館。 『未開物語1902年フォルクヴァンク美術館。 『赤いケープまとったマルキーズの男』1902年リエージュ近代美術館。 『自画像1903年バーゼル市立美術館1902年7月妊娠中だったヴァエホがゴーギャンのもとを去り家族と友人のいる故郷隣村子供を産もうと帰ってしまった。ヴァエホは9月子供産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンその後新たな妻を迎えなかった。ちょうどこの時期に、マルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争加熱していた。 12月には、病状悪化によりほとんど絵の制作ができなくなった最期悟ったゴーギャンは『前語録』(Avant et après)と題する自伝的回顧録書き始め、2か月完成させた。表題には、タヒチに来る前と後の体験綴ったという意味と、祖母回顧録過去未来』への敬意含まれていると考えられるポリネシアでの生活、自分生涯文学・絵画への批評など雑多綴られたものである。その中には地元当局や、マルタン司教、妻メットデンマーク人一般などへの批判盛り込まれている。 1903年初頭ゴーギャンは島駐在国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下無能力汚職告発する活動始めた。しかし、逆にクラヴェリーから名誉毀損告発され3月27日罰金500フラン禁錮3か月判決受けたゴーギャンはすぐにパペーテ裁判所控訴し、その旅費資金集め始めたが、5月8日の朝に急死した。 『海辺騎手たち』1902年個人コレクション。 『豚と馬のいる風景1903年アテネウム美術館ヘルシンキ)。 『異国のある静物1902年プーシキン美術館

※この「マルキーズ諸島」の解説は、「ポール・ゴーギャン」の解説の一部です。
「マルキーズ諸島」を含む「ポール・ゴーギャン」の記事については、「ポール・ゴーギャン」の概要を参照ください。

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