日本への赴任とは? わかりやすく解説

日本への赴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 17:43 UTC 版)

クロード・マクドナルド」の記事における「日本への赴任」の解説

1900年10月前任者アーネスト・サトウポスト交換して北京からそのまま駐日公使就任した翌年入り日同盟に関する議論生じると、マクドナルド日英間の交渉本格化する前に本国召還された。表向き北京以来慰労休暇であったが、その実情は本国政府との協議のためであり、帰国後に首相ソールズベリー侯ハットフィールド会談したほか、在英駐箚公使林董男爵とも複数回にわたって会合持ったマクドナルドの再渡日後も両国間の交渉進み1902年1月30日日英同盟調印された。締結直後4月9日本国明治天皇へのガーター勲章授与打診したが、このときは国王エドワード7世不予シャーへのガーター授与問題などいざこざのために沙汰やみ終わった1904年日露戦争勃発した戦況日本有利に進み翌年ポーツマス条約による講和成立した同年駐日公使館から大使館への格上げがなされ、マクドナルド横滑りして初代駐日イギリス大使となった同時期、イギリスでは再び明治天皇への叙勲問題議論されエドワード7世同年10月30日にランズダウン外務大臣叙勲決定伝えた1906年にはコノート公アーサー王子団長とするガーター授与使節団来日し明治天皇ガーター勲爵士としての名誉に浴した。彼自身同年枢密顧問官への任命ロイヤル・ヴィクトリア勲章受勲果たしている。このように彼は第二次世界大戦前日英関係が最も良好だった時期にその地位にあった1908年発覚した日本製糖汚職事件に際して株主として損害被った。そのため彼は当時桂太郎首相蔵相に対して関係者処罰求め書簡送り、これが日本における公認会計士必要性論じられるきっかけになったともいわれる

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日本への赴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:08 UTC 版)

ウィリアム・カニンガム・グリーン」の記事における「日本への赴任」の解説

1912年大正元年12月1日駐日英国大使就任した当時日英間には日英同盟があったが、中国での権益めぐって両国間の利害衝突始めていた。1913年中国第二革命勃発した際、袁世凱がこれを鎮圧したが、一方で日本は反袁世凱グループへの支援行った。この反袁支援に際して、駐北京代理公使ベイルビー・オールストン(英語版)は外務省激し日本批判文を提出したが、グリーンはこれに対して「反袁支援において個人レベルでの日本人の関与はあったのかも知れないが、日本国政府までもが積極的にこれに与したとも思えない」と擁護した

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日本への赴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:38 UTC 版)

黄遵憲」の記事における「日本への赴任」の解説

黄遵憲到着してからおよそ4年間日本に滞在し政府要人との折衝情報収集奔走した当時日本清朝の間には琉球処分李氏朝鮮を巡る懸案存在しており、公使団は難し舵取り余儀なくされていた。琉球処分では当初公使団は強気に交渉したものの、本国にいる大官 李鴻章りこうしょう)との考え違い国力の差から日本押し切られ煮え湯を飲まされる結果となった。しかしその交渉過程でまず富国強兵ありきという認識を持つようになり、日本の軍近代化注目するうになるのであるつづいて持ち上がった問題朝鮮扱いであった朝鮮中国歴代王朝の朝貢国として位置づけられてきたが、今後もそれと同様の関係を維持したい清朝と、その影響排したい日本の間で角逐生じた当時朝鮮鎖国国是としていたが、何如璋黄遵憲朝鮮清朝指導のもと開国し、諸国条約を結ぶ方が清朝朝鮮共に得策だと考えるようになっていた。これは滞在していた日本影響受けている。当時日本ではロシア南下極めて警戒感持っており、朝鮮ロシア影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見感化され黄遵憲たちは日本よりもロシアへ警戒募らせていったのである。また同時結ばれたサン・ステファノ条約によりトルコロシア屈しながら、他のヨーロッパ諸国干渉により逆にロシア側が譲歩せざるを得なかったことを知り多くの国と条約締結しておいた方が紛争発生時に第三国からの干渉期待できる計算したためでもある。 この考え朝鮮側伝えるため、第二回信使として日本来ていた金弘集黄遵憲面会し説得につとめ、さらに『朝鮮策略』を手渡した。その外交論は以下のような骨子を持つものであった清朝朝鮮との宗属関係の強化日本アメリカ連携すべき事。そのためにアメリカ早く条約締結すること。 通商拡大し西欧から軍事工業技術学び富国強兵を図るべき事。 これを金弘集祖国持ち帰り朝鮮外交鎖国論から開国論へと転回させるきっかけとなったのである黄遵憲は、外交交渉において日本激しやり取り交わしたが、いたずらに反発せず、明治日本から学ぶべき点があることを悟った。また後述するように多く日本人知己得ており、文化交流促進している。単なる知日家ではなく日中友好近代最初に唱えた人でもある。

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