日本への赴任
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「クロード・マクドナルド」の記事における「日本への赴任」の解説
1900年10月に前任者のアーネスト・サトウとポストを交換して、北京からそのまま駐日公使に就任した。翌年に入り日英同盟に関する議論が生じると、マクドナルドは日英間の交渉が本格化する前に本国へ召還された。表向きは北京以来の慰労休暇であったが、その実情は本国政府との協議のためであり、帰国後に首相ソールズベリー侯とハットフィールドで会談したほか、在英駐箚公使の林董男爵とも複数回にわたって会合を持った。マクドナルドの再渡日後も両国間の交渉は進み、1902年1月30日に日英同盟が調印された。締結直後の4月9日、本国へ明治天皇へのガーター勲章授与を打診したが、このときは国王エドワード7世の不予、シャーへのガーター授与問題などのいざこざのために沙汰やみに終わった。 1904年に日露戦争が勃発した。戦況は日本に有利に進み、翌年にポーツマス条約による講和が成立した。同年、駐日公使館から大使館への格上げがなされ、マクドナルドも横滑りして初代駐日イギリス大使となった。同時期、イギリスでは再び明治天皇への叙勲問題が議論され、エドワード7世は同年10月30日にランズダウン外務大臣に叙勲の決定を伝えた。1906年にはコノート公アーサー王子を団長とするガーター授与使節団が来日し、明治天皇はガーター勲爵士としての名誉に浴した。彼自身も同年に枢密顧問官への任命、ロイヤル・ヴィクトリア勲章の受勲を果たしている。このように彼は第二次世界大戦前の日英関係が最も良好だった時期にその地位にあった。 1908年に発覚した日本製糖汚職事件に際して、株主として損害を被った。そのため彼は当時の桂太郎首相兼蔵相に対して関係者の処罰を求める書簡を送り、これが日本における公認会計士の必要性が論じられるきっかけになったともいわれる。
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日本への赴任
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「ウィリアム・カニンガム・グリーン」の記事における「日本への赴任」の解説
1912年(大正元年)12月1日、駐日英国大使に就任した。 当時日英間には日英同盟があったが、中国での権益をめぐって両国間の利害が衝突を始めていた。1913年に中国で第二革命が勃発した際、袁世凱がこれを鎮圧したが、一方で日本は反袁世凱グループへの支援を行った。この反袁支援に際して、駐北京代理公使ベイルビー・オールストン(英語版)は外務省に激しい日本批判文を提出したが、グリーンはこれに対して「反袁支援において個人レベルでの日本人の関与はあったのかも知れないが、日本国政府までもが積極的にこれに与したとも思えない」と擁護した。
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日本への赴任
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黄遵憲は到着してからおよそ4年間日本に滞在し、政府要人との折衝や情報収集に奔走した。当時日本と清朝の間には琉球処分や李氏朝鮮を巡る懸案が存在しており、公使団は難しい舵取りを余儀なくされていた。琉球処分では当初公使団は強気に交渉したものの、本国にいる大官 李鴻章(りこうしょう)との考えの違いや国力の差から日本に押し切られ、煮え湯を飲まされる結果となった。しかしその交渉過程でまず富国強兵ありきという認識を持つようになり、日本の軍近代化に注目するようになるのである。 つづいて持ち上がった問題が朝鮮の扱いであった。朝鮮は中国歴代王朝の朝貢国として位置づけられてきたが、今後もそれと同様の関係を維持したい清朝と、その影響を排したい日本の間で角逐が生じた。当時朝鮮は鎖国を国是としていたが、何如璋や黄遵憲は朝鮮が清朝の指導のもと開国し、諸国と条約を結ぶ方が清朝・朝鮮共に得策だと考えるようになっていた。これは滞在していた日本に影響を受けている。当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。また同時期結ばれたサン・ステファノ条約によりトルコがロシアに屈しながら、他のヨーロッパ諸国の干渉により逆にロシア側が譲歩せざるを得なかったことを知り、多くの国と条約を締結しておいた方が紛争発生時に第三国からの干渉を期待できると計算したためでもある。 この考えを朝鮮側に伝えるため、第二回 修信使として日本に来ていた金弘集と黄遵憲は面会し説得につとめ、さらに『朝鮮策略』を手渡した。その外交論は以下のような骨子を持つものであった。 清朝と朝鮮との宗属関係の強化。 日本やアメリカと連携すべき事。そのためにアメリカと早くに条約を締結すること。 通商を拡大し、西欧から軍事や工業技術を学び、富国強兵を図るべき事。 これを金弘集が祖国に持ち帰り、朝鮮の外交を鎖国論から開国論へと転回させるきっかけとなったのである。 黄遵憲は、外交交渉において日本と激しいやり取りを交わしたが、いたずらに反発せず、明治日本から学ぶべき点があることを悟った。また後述するように多くの日本人の知己を得ており、文化交流を促進している。単なる知日家ではなく、日中友好を近代最初に唱えた人でもある。
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