第3の哨戒 1945年6月 - 7月
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「スレッドフィン (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1945年6月 - 7月」の解説
6月1日、スレッドフィンは3回目の哨戒で東シナ海および黄海方面に向かった。グアムアプラ港で補給と整備を受けた後、哨区に到着。7月14日、スレッドフィンは3本マストのスクーナーを5インチ砲で撃沈、9名の乗組員を救助した。乗組員の供述では、このスクーナーは大連に石炭を輸送しているところであった。翌日、今度は小さな船に囲まれた貨物船を発見。何らかのサルベージ作業をしているかのように見えたので、その作業を妨害すべく魚雷1本を発射しようとした。しかしよく観察してみると、それはサルベージ作業ではなく、ただの釣りのようであった。その後、スレッドフィンは4本マストのスクーナーを発見して撃沈した。7月16日にもジャンクを発見して撃沈した。7月19日には2本マストのジャンクを発見して臨検したが、乗組員が好意的な中国人だったので撃沈することはなかった。翌7月20日の夜、スレッドフィンは北緯35度01分 東経125度42分 / 北緯35.017度 東経125.700度 / 35.017; 125.700の地点で濃霧の中目標を探知し、浮上しながら魚雷5本を発射。うち2本が命中し目標は沈んでいった。この目標は第39号掃海艇であった。7月21日、スレッドフィンは対馬海峡近海に向かう途中、シーロビン (USS Sea Robin, SS-407) から4隻の小型貨物船と護衛艦を発見したとの報告を受けた。スレッドフィンはシーロビンとともに攻撃、この時に護衛艦の姿はなく、スレッドフィンとシーロビンは小型貨物船をそれぞれ2隻ずつ撃沈した。グアムへの帰途、スレッドフィンは味方飛行艇から3人の生存者を引き取って収容した。7月28日、スレッドフィンは53日間の行動を終えてアプラ港に帰投した。帰投後、8月12日までスレッドフィンは4回目の哨戒に備えてグアムで修理を受け、また修理後の訓練を行ったものの、8月15日に日本が降伏し太平洋戦争が終結したので、4回目の哨戒は行われなかった。
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第3の哨戒 1945年6月 - 7月
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「スプリンガー (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1945年6月 - 7月」の解説
6月16日、スプリンガーは3回目の哨戒で日本近海に向かった。サイパン島に移動して補給の後出港。この哨戒では東京湾口での敵艦への攻撃および味方パイロットの救助任務であった。6月26日、撃墜されたB-29のクルー8名を救助し、彼らをティグロン (USS Tigrone, SS-419) に移乗させた。スプリンガーとトレパンは別の墜落機の乗員が50マイル離れた位置にいることを知らされ、現場海域に急行、スプリンガーはパイロット1名、トレパンは7名を救助した。パイロットは数日後、デビルフィッシュ (USS Devilfish, SS-292) に移乗した。その後、7月17日から23日まで紀伊水道での哨戒を何事もなく終えた。7月27日、スプリンガーは40日間の行動を終えてアプラ港に帰投。入港直前、スプリンガーはアプラ港に停泊していた重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) と交信した。終戦を迎えたスプリンガーは8月17日に出航し、本国の西海岸に向かった。
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