第3の哨戒 1945年7月 - 9月
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「テンチ (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1945年7月 - 9月」の解説
7月23日、テンチは3回目の哨戒で日本近海に向かった。7月26日には第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)と会合。7月29日に東シナ海に入り、翌7月30日には北緯34度57分00秒 東経124度59分04秒 / 北緯34.95000度 東経124.98444度 / 34.95000; 124.98444の地点でモーターラガー "Sakiyoshi Maru" を発見し、40ミリ機関砲で穴だらけにした。テンチの乗組員がラガーに乗り込み、9名の韓国人乗組員を確保した。8月2日から4日にかけては台風に見舞われたが乗り切った。8月6日、テンチは北緯36度06分07秒 東経125度59分03秒 / 北緯36.10194度 東経125.98417度 / 36.10194; 125.98417の地点で韓国人乗組員を小船に乗せて解放した後、朝鮮半島西岸部の小島である於青島に対して5インチ砲による艦砲射撃を行い、4隻の100トン級スクーナーを大きく破壊した他、5隻の小船や陸上の建築物に打撃を与えた。攻撃後、テンチは渤海方面に移動。遼東半島と山東半島の間の海域で哨戒を続けた。8月9日、テンチは北緯38度48分00秒 東経121度01分05秒 / 北緯38.80000度 東経121.01806度 / 38.80000; 121.01806の地点で2隻の300トン級および400トン級はしけを曳航する300トン級タグボートを発見し、霧で見え難いため浮上して撃沈しようと魚雷を2本、1本、2本と発射して複数の命中を確認し、すべての目標を撃沈と判定した。しかしこの時、2機の一式陸攻がテンチを発見していた。一式陸攻はテンチの左舷横450メートルに爆弾を投下し、この反撃によりテンチは更なる攻撃を諦めざるを得なかった。8月15日、日本は降伏した。テンチは8月28日まで哨戒海域に留まり、続いてグアムに向かった。9月2日、テンチは49日間の行動を終えてアプラ港に帰投した。
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第3の哨戒 1945年7月 - 9月
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「ティグロン (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1945年7月 - 9月」の解説
7月31日、ティグロンは3回目の哨戒で日本近海に向かった。サイパン島で魚雷を補給した後、救命ステーションに到着する。ティグロンは本州から100マイルの距離に接近したときに、ソビエト連邦が日本に宣戦布告したという知らせが届いた。アメリカ軍機が東京を始めとする日本本土の都市に攻撃を加え、ティグロンは本州付近で哨戒すると共に、ますます多くの日本軍探索機に遭遇することとなった。 8月11日、日本降伏に関する最初の報告書が受け取られたが、ティグロンはもう2日の間哨戒を継続し、相模湾から50マイルに近づき救助艦任務に当たった。8月13日に1名のパイロットを救助。また神子元島に艦砲射撃を行い、無線所および灯台に11発の直撃弾を与えた。8月14日にティグロンはパラシュート降下した別のパイロットを救助し、その日の内に30分におよぶ執拗なソナー接触を回避したが、それは鳥であったことが判明した。 8月15日にティグロンは攻撃停止命令を受け取った。翌日、日本降伏の公式声明が発表された。ティグロンは日本の東海岸を仙台沖まで巡航し、その後8月30日に「ベニーズ・ピースメーカーズ」と共に航行、31日に東京湾に係留された。9月2日に東京湾を出航。9月12日、ティグロンは41日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。その後、ハワイおよびパナマ運河地帯を経由し、10月初めにニューロンドンに到着した。
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