第3の哨戒 1945年2月 - 4月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/01 14:04 UTC 版)
「シーデビル (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1945年2月 - 4月」の解説
2月7日、シーデビルは3回目の哨戒で東シナ海および黄海方面に向かった。2月19日にサイパン島に寄港し、ウルフパック戦術の訓練を行った後、バラオ (USS Balao, SS-285)、ガードフィッシュ (USS Guardfish, SS-217)、テンチ (USS Tench, SS-417) とともに出航した。2月末には、撃墜されて着水したパイロットの捜索に従事。3月3日には、減少の一途をたどる中国、満州と日本間の航路で哨戒を行った。一週間以上ジャンク以外には接触しなかったが、2月24日に4隻の護衛艦がついた大型タンカーを発見。しかし、シーデビルはこの輸送船団を見失ってしまった。翌25日には日本の対潜部隊を見つけ、避退した。2月28日には4つの機雷を発見し爆発させ、他の2つにも爆破を試みた。 3月の終わり頃から哨戒海域に霧がかかるようになり、4月2日になると視界は1,000メートル程度に落ちた。それでもシーデビルは7時10分にレーダーにより4隻の商船と3隻の護衛艦を探知。9時15分、シーデビルは先頭の商船に対して発砲し、40秒後には2番目の目標に対して砲撃を行った。以後3番目の目標に対しても船尾発射管を向けつつ砲撃した後、護衛艦に対しても3度発砲した。また、8時19分から8時22分の間には7つの命中音が聞き取れた。 シーデビルは船団に対して発射管を向けた。この時、レーダー上には3つの目標しか残っていなかった。最初の雷撃は3番目の商船に向けられたものの、少なくとも3番目の魚雷は目標から逸れていった。態勢を立て直した後、シーデビルは船団の残存艦船を求めて追跡した。10時頃、シーデビルは1隻の護衛艦を攻撃して打撃を与えた後、40分後には未だ残っていた商船に対して発砲。その目標がレーダースクリーン上から突然消えたのを確認した。11時頃には生存者を求めて船の残骸の間を航行し、4名を救助したものの怪我が元で全員死亡した。 シーデビルが攻撃した船団は基隆から門司に向かっていたタモ51船団であり、シーデビルはこのうち大譲丸(大阪商船、6,866トン)、日津丸(三菱汽船、1,179トン)、江戸川丸(東亜海運、1,972トン)の3隻を北緯34度02分 東経124度00分 / 北緯34.033度 東経124.000度 / 34.033; 124.000の地点で撃沈し、残り1隻の商船と護衛艦1隻に損傷を与えたと考えられた。 シーデビルは船団攻撃後の3日間は黄海で哨戒したあと、ミッドウェー島に進路を向けた。しかし、九州南方を航行中の4月7日に、撃墜された海兵隊機の4名の乗員を救助するよう命令を受けた。その海兵隊機は空母エセックス (USS Essex, CV-9) から戦艦大和の水上特攻を迎え撃つために発進したもので、燃料切れで不時着水したものだった。8日深夜、シーデビルは沖縄島北東320キロの海上で3名の乗員を発見、救助し残る乗員の捜索を行った。翌9日になると友軍機も捜索に参加したが、発見することは出来なかった。シーデビルは9日午後に進路を南東にとり、4月13日にサイパン島に寄港。4月20日、シーデビルは63日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。海軍殊勲部隊章が授けられた。整備後、シーデビルはサイパン島に回航され、5月28日に到着した。艦長がチャールズ・F・マクギヴァン(アナポリス1938年組)に代わった。
※この「第3の哨戒 1945年2月 - 4月」の解説は、「シーデビル (潜水艦)」の解説の一部です。
「第3の哨戒 1945年2月 - 4月」を含む「シーデビル (潜水艦)」の記事については、「シーデビル (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第3の哨戒 1945年2月 - 4月のページへのリンク