第3の哨戒 1944年8月 - 9月
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「パンパニト (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1944年8月 - 9月」の解説
8月17日、パンパニトは3回目の哨戒でグロウラー (USS Growler, SS-215) 、シーライオン (USS Sealion, SS-315) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。9月12日1時55分ごろ、パンパニト以下のウルフパックは海南島東方沖でヒ72船団を捕らえた。まずグロウラーが船団旗艦の海防艦平戸を一撃で撃沈し、船団は右往左往し始めた。明け方になってシーライオンが南海丸(大阪商船、8,416トン)と楽洋丸(南洋海運、9,418トン)を撃沈し、グロウラーも2隻の戦果として駆逐艦敷波を撃沈した。ここにきて船団は三亜に向けて退避し始めた。しかしウルフパックはなおも喰らいつき、12日22時54分ごろに朝の攻撃ではあまり出番のなかったパンパニトが勝鬨丸(拿捕船、元アメリカ船プレジデント・ハリソン/日本郵船委託、10,509トン)とタンカー瑞鳳丸(飯野海運、5,135トン)に対し魚雷を発射。勝鬨丸には1本が左舷船倉に命中しただけであったが、浸水と傾斜が甚だしく23時37分に沈没した。また、瑞鳳丸に向かった魚雷は勝鬨丸に向かった魚雷とほぼ同時に命中し、あっという間に沈没していった。沈没位置は北緯19度18分 東経111度53分 / 北緯19.300度 東経111.883度 / 19.300; 111.883と推定されている。そのほか、もう1隻に損傷を与えたようにも見えた。この時の勝鬨丸は地獄船と渾名された連合軍捕虜輸送船の1隻で、パンパニトの攻撃により輸送中の捕虜の大半が死亡した。シーライオンが撃沈した楽洋丸もそうであり、一連の攻撃で1,300名。を超える捕虜が死亡するか漂流する結果となった。この手の地獄船情報は、通常なら連合軍が張り巡らした諜報網で事前に察知するはずであったが、この時に限って諜報がなかったと言われている。攻撃から3日後の9月15日、パンパニトは勝鬨丸の沈没地点に戻り、筏にしがみつく人影を発見する。近づくと英語の叫び声が聞こえた。パンパニトは73名のイギリスおよびオーストラリア兵の生存者を救助し、シーライオン、バーブ (USS Barb, SS-220) 、クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の3隻に救援を求めた。一連の救助活動の結果、パンパニトとシーライオンが127名、バーブとクイーンフィッシュが32名を救助した。救助活動後パンパニトはサイパン島に向かい、生存者を上陸させた。9月28日、パンパニトは42日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がフランク・W・フェンノ(アナポリス1925年組)に代わった。
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