第3の哨戒 1944年8月 - 9月とは? わかりやすく解説

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第3の哨戒 1944年8月 - 9月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/09 16:46 UTC 版)

パンパニト (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1944年8月 - 9月」の解説

8月17日、パンパニトは3回目の哨戒グロウラー (USS Growler, SS-215) 、シーライオン (USS Sealion, SS-315) とウルフパック構成し南シナ海向かった9月12日1時55分ごろ、パンパニト以下のウルフパック海南島東方沖でヒ72船団捕らえた。まずグロウラー船団旗艦海防艦平戸一撃撃沈し船団右往左往し始めた明け方になってシーライオン南海丸大阪商船、8,416トン)と楽洋丸(南洋海運、9,418トン)を撃沈しグロウラーも2隻の戦果として駆逐艦敷波撃沈した。ここにきて船団三亜向けて退避し始めた。しかしウルフパックはなおも喰らいつき、12日2254分ごろに朝の攻撃ではあまり出番のなかったパンパニトが勝鬨丸拿捕船、元アメリカ船プレジデント・ハリソン/日本郵船委託10,509トン)とタンカー瑞鳳丸(飯野海運、5,135トン)に対し魚雷発射勝鬨丸には1本が左舷船倉命中しただけであったが、浸水傾斜甚だしく23時37分に沈没したまた、瑞鳳丸に向かった魚雷勝鬨丸向かった魚雷とほぼ同時に命中しあっという間に沈没していった。沈没位置北緯1918東経11153分 / 北緯19.300度 東経111.883度 / 19.300; 111.883と推定されている。そのほか、もう1隻に損傷与えたようにも見えた。この時の勝鬨丸地獄船渾名された連合軍捕虜輸送船の1隻で、パンパニトの攻撃により輸送中の捕虜大半死亡したシーライオン撃沈した楽洋丸もそうであり、一連の攻撃で1,300名。を超える捕虜死亡する漂流する結果となったこの手地獄船情報は、通常なら連合軍張り巡らした諜報網で事前に察知するはずであったが、この時に限って諜報がなかったと言われている。攻撃から3日後の9月15日、パンパニトは勝鬨丸沈没地点戻り、筏にしがみつく人影発見する近づくと英語の叫び声聞こえた。パンパニトは73名のイギリスおよびオーストラリア兵の生存者救助しシーライオンバーブ (USS Barb, SS-220) 、クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の3隻に救援求めた一連の救助活動結果、パンパニトとシーライオン127名、バーブクイーンフィッシュ32名を救助した救助活動後パンパニトはサイパン島向かい生存者上陸させた。9月28日、パンパニトは42日間行動終えて真珠湾帰投艦長フランク・W・フェンノ(アナポリス1925年組)に代わった。

※この「第3の哨戒 1944年8月 - 9月」の解説は、「パンパニト (潜水艦)」の解説の一部です。
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