第3の哨戒 1944年10月 - 11月
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「シーライオン (SS-315)」の記事における「第3の哨戒 1944年10月 - 11月」の解説
10月31日、シーライオンは3回目の哨戒でケート (USS Kete, SS-369) とともに東シナ海に向かった。11月4日にミッドウェー島に到着し、一息ついてから出航。10日後、シーライオンはトカラ列島を西に抜け、哨戒海域に入った。11月16日、シーライオンは訓練中に艦尾の8番発射管の蓋を閉じた状態で誤って魚雷を発射してしまった。修理しようにも激浪により徹底的な調査ができず、結果的に8番発射管は使用不可能となってしまった。11月17日には上海沖に到達したが、翌18日に5番発射管に装てんしている電池魚雷の電池が軽く爆発を起こしてしまった。シーライオンは台湾海峡方面に移動することとなった。 11月21日0時20分、シーライオンはレーダーにより16ノットの速力でジグザグ航行をする複数の目標を探知した。0時48分までには、相手は少なくとも2隻の戦艦と2隻の巡洋艦であることを確認。1時46分、シーライオンは視界内に戦艦、巡洋艦のほかに両脇に護衛艦がいるのを視認。この艦隊はレイテ沖海戦に破れ、一息ついてから日本本土に向かっていた第二艦隊(栗田健男中将)であり、戦艦金剛、長門、大和を中心に、金剛の前に軽巡洋艦矢矧、戦艦の両脇に駆逐艦浦風、磯風、雪風、浜風、梅、桐を配して高速で航行していた。シーライオンは戦闘配置を令して全速力で追跡し、艦首の魚雷の深度を2.6メートルに設定して攻撃機会を待った。 2時45分、シーライオンは第二艦隊の横腹に入り込み、速度を落として浮上したまま攻撃態勢に入った。2時56分、シーライオンは2番手の金剛に対して魚雷を6本発射。急旋回ののち3分後に3番手の長門に対して魚雷を3本発射した。1分後、シーライオンは3つの爆発音を確認した。最初の魚雷は金剛の左舷艦首と二番煙突下の缶室に命中し、長門に向かった魚雷は長門の艦首をかすめ去り、長門の右斜め前にいた浦風に命中。浦風は爆発を起こしてそのまま姿を消した。 シーライオンは西に向けて航行し、「魚雷が命中した目標は装甲が損傷しただけ」と判断して次発装てんを急いだ。3時10分までには2回目の攻撃の態勢が整った。その間、大和と長門、矢矧、雪風は、金剛と金剛の護衛につけられた磯風、浜風を置いて北東方向へ全力で逃げ去った。海は荒れてきて追跡が徐々に困難になってきたが、4時50分には艦隊が2つに別れたのをレーダーで確認し、シーライオンは金剛を追跡し始めた。5時12分には金剛まで1,500メートルに接近したが、その直後、シーライオンは大きく揺さぶられた。金剛が大傾斜した末に火薬庫から大爆発を起こして爆沈し、その影響を正面に受けたのであった。 この時発射された魚雷を含め、アメリカの魚雷には弾頭に名前を記すことが慣例となっていた。大抵は妻かガールフレンドの名前だったが、時には戦時公債を売りさばいた工場の従業員の名前だったりもした。この時に発射された魚雷には、先代がフィリピンで爆撃を受けた際に戦死した4名の乗組員、フォスター、オコンネル、ポール、オギルビーの名が記されていた。また、アメリカ潜水艦の攻撃の様子を録音するのは前例がなかったが、シーライオンのこの攻撃の際には、戦闘配置が令された後、シーライオンに乗艦していたCBSの従軍記者により攻撃の様子の録音が行われた。この時の録音は、後述の5回目の哨戒の際に録音されたものと合わせてアメリカ海軍水中測探研究所に保存されており、これらは第二次世界大戦での海中攻撃の様子を収めた数少ない録音だと考えられる。 シーライオンは中国大陸と台湾の間を哨戒した。11月28日、シーライオンは32日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投。艦長がチャールズ・F・プットマン(アナポリス1937年組)に代わった。
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第3の哨戒 1944年10月 - 11月
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「ギターロ (ガトー級潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1944年10月 - 11月」の解説
10月8日、ギターロは3回目の哨戒でブリーム (USS Bream, SS-243) とともに南シナ海に向かった。10月23日深夜から24日未明にかけて、ギターロは北緯12度58分 東経119度23分 / 北緯12.967度 東経119.383度 / 12.967; 119.383の地点で、レイテ島沖に向けてミンドロ海峡を通過中の栗田健男中将率いる第二遊撃部隊を探知し、同時期に探知したアングラー (USS Angler, SS-240) とともに、司令部に重要な情報を送り続けた。これらの情報は有効に生かされ、レイテ沖海戦でのアメリカ海軍の勝利に貢献した。10月30日、ギターロはブリーム、レイトン (USS Raton, SS-270) と合流し、午後にサンバレス州沿岸でモマ05船団を発見した。3隻は翌朝にモマ05船団を攻撃し、ギターロは魚雷を4本ずつ計8本発射、魚雷は2隻の輸送船、ぱしふいっく丸(玉井商船、5,872トン)と広明丸(広海汽船、2,857トン)に命中してこれらを撃沈した。 11月4日には、北緯15度55分 東経119度44分 / 北緯15.917度 東経119.733度 / 15.917; 119.733のルソン島沿岸ダソル(英語版)湾沖でタマ31A号船団を発見した。船団は特設運送船香久丸(大阪商船、6,806トン)と二等輸送艦4隻で構成されていた。ウルフパックは二等輸送艦には目もくれず、香久丸を攻め立てた。まずレイトンが香久丸に対して魚雷を6本発射したが回避された。ギターロはレイトンに続いて接近し、魚雷を4本発射して1本を香久丸に命中させた。三番手としてブリームが魚雷を4本発射し、1本が命中し香久丸は大火災が発生して航行不能となる。その後、タマ31A船団に接近していたレイ (USS Ray, SS-271) が航行不能の香久丸に対して魚雷を2本発射し、2本とも命中させて香久丸を撃沈した。レイトンは先んじてタマ31A船団を探知していたものの魚雷を外したことが明らかだったため、香久丸撃沈の戦果はギターロ、ブリームおよびレイに三等分された。 11月6日、ギターロ、ブリーム、レイとレイトンは重巡洋艦熊野、青葉の2隻を含んだマタ31船団を発見。ギターロは北緯15度55分 東経119度44分 / 北緯15.917度 東経119.733度 / 15.917; 119.733の地点で艦首と艦尾の発射管から魚雷を計10本発射し、3本を「愛宕型重巡洋艦」に命中させたと判定。続いてブリームが北緯16度01分 東経119度43分 / 北緯16.017度 東経119.717度 / 16.017; 119.717の地点で魚雷を4本発射して「14,000トン級重巡洋艦」に2本命中させたと判定される。レイトンとレイはブリームが攻撃して約1時間後に相前後して攻撃し、レイトンは魚雷を6本発射して2本か3本を熊野に命中させたと報告し、レイも魚雷を4本発射して、2本を熊野に命中させたと報告した。夜に入り、レイが「被雷した最上型巡洋艦はダソル湾に逃げ込んだだろう」と報告した。攻撃直後、ギターロは駆潜艇から爆雷攻撃を受け、レーダーを破壊される被害を受けたが致命的な損傷は受けず、何とか哨戒を続けることができた。11月16日、ギターロは38日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がトーマス・B・ダブニー少佐(アナポリス1936年組)に代わった。
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