第3の哨戒 1943年1月 - 2月とは? わかりやすく解説

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第3の哨戒 1943年1月 - 2月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 16:52 UTC 版)

ワフー (SS-238)」の記事における「第3の哨戒 1943年1月 - 2月」の解説

1943年1月16日ワフー3回目の哨戒ニューギニア島近海向かった。この哨戒ではウェワク中心とする日本軍の補給路を探索するのだったが、一つ問題があった。ワフーはその地域に関する情報持っていなかったのである。しかし、乗組員一人安物学習地図帳持っており、それによってウェワク位置を知ることができた。 1月24日未明ワフー南緯0323東経14334分 / 南緯3.383度 東経143.567度 / -3.383; 143.567のカイリル島沖で駆逐艦春雨発見する春雨空母隼鷹基地員および第二航空戦隊要員収容のためウェワク出港してきた所だった。13時45分頃ワフー春雨左舷後方から魚雷3本発射した回避された。ワフー魚雷発射に気づいた春雨反転し、これを見たワフー春雨できるだけひきつけて魚雷を1本発射するが、これも外れる。ワフーはもう2本の魚雷発射し、うち1本が春雨の一番砲直下付近に命中した春雨手痛い損害受けたものの、応急修理行って沈没免れたモートン艦長部下に「日本駆逐艦船体二つ折れたと言った乗組員のジョン・クラビーは記している。しかしこの発言間違いもしくは嘘で、春雨はのちに日本帰還し本格的修理後復帰した翌日ワフーは哨区をパラオ海域移動させる1月26日明け方ワフー南緯0155東経13914分 / 南緯1.917度 東経139.233度 / -1.917; 139.233の地点で2隻の輸送船発見する。約2時間後、ワフー先頭の7,000トン輸送船に対して魚雷を2本発射し、2本とも命中させて7,000トン輸送船撃沈する次いで二番目輸送船に対して魚雷を2本発射し、1本を命中させて撃破する最初二番目攻撃戦果判定中に三番目輸送船発見し魚雷3本発射して2本を命中させて撃破した。しばらく待つと、今度別の方角からタンカー出現し、この目標に対して夕方になって南緯0234東経13925分 / 南緯2.567度 東経139.417度 / -2.567; 139.417の地点魚雷3本発射し、1本が命中した判断される。さらに夜に入って浮上攻撃行い魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈した判断された。二番目三番目輸送船に対して再度魚雷を2本ずつ発射し二番目輸送船には1本が命中し三番目目標には2本とも命中し、1本は不発だったものの、この目標撃沈した二番目輸送船に対してはこの日最後の夜浮上攻撃魚雷を2本発射し、2本とも命中させて撃沈した判断された。ワフー一連の攻撃当初は3隻の輸送船と1隻のタンカー全滅した判定され、後に2隻の陸軍輸送船、武洋丸(玉井商船、5,346トン)と第二福栄丸(日東鉱業汽船、1,901トン)を撃沈し、他に4,000トン輸送船撃沈した評価された。 四番目の目標であるタンカー発見したあと、ワフー周囲何もないことを確認してから浮上し救命ボート中の人員に向けて使える砲や機銃攻撃した。この殺戮劇は、おおよそ1時間程度終わった。この銃撃事件虐殺戦争犯罪ではないかアメリカ海軍内で問題となり、数々武勲立てながら名誉勲章授与されなかった。潜水艦隊司令官チャールズ・A・ロックウッド少将は、「こういった銃撃戦は(アメリカ海軍内では)一般的なことだった」と回想している。 また銃撃加えた相手日本人のみならずイギリス軍参加して日本軍捕虜となっていた、当時イギリスの植民地であったインド兵も含まれていた。現に、武洋丸に乗船していた1,126名のうち、87名の第二十六野戦兵器廠要員の他に、第16パンジャーブ連隊第2大隊属していた195名のインド捕虜死亡している。ボートに人が乗っていることは承知の上でのことであり、明らかな殺意があっての行動であることは明白である。もっとも、掃射命じたのはモートン艦長直々であったと言う証言もある。 ワフーは翌1月27日朝にも北緯0415分 東経140度05分 / 北緯4.250度 東経140.083度 / 4.250; 140.083の地点で5隻の輸送船と1隻のタンカーからなる輸送船団発見したが、前日攻撃魚雷使い果たしていたので何もできなかった。1月28日にはファイス島リン鉱石精錬所への艦砲射撃目論んだが、北緯0945分 東経140度30分 / 北緯9.750度 東経140.500度 / 9.750; 140.500の地点Qシップらしい艦船がおり、この事からガジョン (USS Gudgeon, SS-211) の第2の哨戒での教訓踏まえて用心のため艦砲射撃断念した2月7日ワフー23日間の行動終えて真珠湾帰投その際レーダーマストに軍艦旗2流と日章旗6流、白地に赤で書いた"SHOOT THE SUN ZA BITCHES"と書かれたペナント翻し、敵を「一掃」したという意味を示す箒を潜望鏡架台掲げて帰投した。以降大戦果を収めた潜水艦艦長モートン艦長真似をして箒を掲げようになったワフー簡単な修理行い乗組員努力結果2月15日までに終わった

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第3の哨戒 1943年1月 - 2月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/22 18:27 UTC 版)

アンバージャック (SS-219)」の記事における「第3の哨戒 1943年1月 - 2月」の解説

1月24日アンバージャック3回目の哨戒ソロモン諸島方面向かった当初十分な休養取ってから出撃するはずであったが、ソロモン方面戦局予断を許さないものであり、12日間で休養打ち切られた。ブリスベン出港したアンバージャックであったが、故障発生したためブリスベン引き返し修理の上2日後1月26日再度出撃した。1月29日テテパレ島付近ショートランド島への航路通過した北西方面に移動2月1日にはブカ島西方位置していることを報告した2月3日報告では、アンバージャックトレジャリー諸島南西海域日本潜水艦発見し、またブカ島沖合いスクーナー発見し浮上砲戦撃沈したことを伝えたアンバージャックベララベラ島ブカ島ショートランドを結ぶ海域移動するよう命令受けた2月4日アンバージャックは「5,000トン輸送船交戦、5本の魚雷発射してこれを撃沈したが、アーサー・C・ビーマンが反撃機銃掃射食らって戦死しリチャード・G・スターン中尉負傷した」と、この哨戒での2度目報告をした。2月8日アンバージャック南緯7度30分付近、ラノンガ島の西寄り位置移動しラバウルブカ島ショートランド間の航路哨戒するよう命令受けたアンバージャックからの3度目結果的に最後となった通信2月14日受信された。その内容は「2月13日夜に、敵駆逐艦2隻により潜行強いられる。同じ日には日本軍パイロット2名を救助捕虜とした」とあった。その後引き続き南緯6度30以北ラバウル航路偵察命じられた。予定では、ステフェン海峡英語版)、ニューハノーバー島方面移動して哨戒行い、ヴィティアス海峡英語版)を通過して再びソロモン海に入るというプランであったが、その後アンバージャックからの応答無く3月10日定時報告行われることはなかった。アンバージャック1943年3月22日喪失推定された。

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