第3の哨戒 1943年1月 - 2月
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「ワフー (SS-238)」の記事における「第3の哨戒 1943年1月 - 2月」の解説
1943年1月16日、ワフーは3回目の哨戒でニューギニア島近海に向かった。この哨戒ではウェワクを中心とする日本軍の補給路を探索するものだったが、一つ問題があった。ワフーはその地域に関する情報を持っていなかったのである。しかし、乗組員の一人が安物の学習地図帳を持っており、それによってウェワクの位置を知ることができた。 1月24日未明、ワフーは南緯03度23分 東経143度34分 / 南緯3.383度 東経143.567度 / -3.383; 143.567のカイリル島沖で駆逐艦春雨を発見する。春雨は空母隼鷹基地員および第二航空戦隊要員を収容のためウェワクを出港してきた所だった。13時45分頃、ワフーは春雨の左舷後方から魚雷を3本発射したが回避された。ワフーの魚雷発射に気づいた春雨は反転し、これを見たワフーは春雨をできるだけひきつけて魚雷を1本発射するが、これも外れる。ワフーはもう2本の魚雷を発射し、うち1本が春雨の一番砲直下付近に命中した。春雨は手痛い損害を受けたものの、応急修理を行って沈没は免れた。モートン艦長は部下に「日本の駆逐艦は船体が二つに折れた」と言ったと乗組員のジョン・クラビーは記している。しかしこの発言は間違い、もしくは嘘で、春雨はのちに日本に帰還し、本格的修理後に復帰した。 翌日、ワフーは哨区をパラオ海域に移動させる。1月26日明け方、ワフーは南緯01度55分 東経139度14分 / 南緯1.917度 東経139.233度 / -1.917; 139.233の地点で2隻の輸送船を発見する。約2時間後、ワフーは先頭の7,000トン級輸送船に対して魚雷を2本発射し、2本とも命中させて7,000トン級輸送船を撃沈する。次いで二番目の輸送船に対しても魚雷を2本発射し、1本を命中させて撃破する。最初と二番目の攻撃の戦果判定中に三番目の輸送船を発見し、魚雷を3本発射して2本を命中させて撃破した。しばらく待つと、今度は別の方角からタンカーが出現し、この目標に対しては夕方になって南緯02度34分 東経139度25分 / 南緯2.567度 東経139.417度 / -2.567; 139.417の地点で魚雷を3本発射し、1本が命中したと判断される。さらに夜に入って浮上攻撃を行い、魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈したと判断された。二番目と三番目の輸送船に対しても再度魚雷を2本ずつ発射し、二番目の輸送船には1本が命中し、三番目の目標には2本とも命中し、1本は不発だったものの、この目標を撃沈した。二番目の輸送船に対してはこの日最後の夜間浮上攻撃で魚雷を2本発射し、2本とも命中させて撃沈したと判断された。ワフーは一連の攻撃で当初は3隻の輸送船と1隻のタンカーを全滅したと判定され、後に2隻の陸軍輸送船、武洋丸(玉井商船、5,346トン)と第二福栄丸(日東鉱業汽船、1,901トン)を撃沈し、他に4,000トン級輸送船も撃沈したと評価された。 四番目の目標であるタンカーを発見したあと、ワフーは周囲に何もないことを確認してから浮上し、救命ボートの中の人員に向けて使える砲や機銃で攻撃した。この殺戮劇は、おおよそ1時間程度で終わった。この銃撃事件が虐殺や戦争犯罪ではないかとアメリカ海軍内で問題となり、数々の武勲を立てながら名誉勲章が授与されなかった。潜水艦隊司令官チャールズ・A・ロックウッド少将は、「こういった銃撃戦は(アメリカ海軍内では)一般的なことだった」と回想している。 また銃撃を加えた相手は日本人のみならず、イギリス軍に参加して日本軍の捕虜となっていた、当時イギリスの植民地であったインド兵も含まれていた。現に、武洋丸に乗船していた1,126名のうち、87名の第二十六野戦兵器廠要員の他に、第16パンジャーブ連隊第2大隊に属していた195名のインド兵捕虜が死亡している。ボートに人が乗っていることは承知の上でのことであり、明らかな殺意があっての行動であることは明白である。もっとも、掃射を命じたのはモートン艦長直々であったと言う証言もある。 ワフーは翌1月27日朝にも北緯04度15分 東経140度05分 / 北緯4.250度 東経140.083度 / 4.250; 140.083の地点で5隻の輸送船と1隻のタンカーからなる輸送船団を発見したが、前日の攻撃で魚雷を使い果たしていたので何もできなかった。1月28日にはファイス島のリン鉱石精錬所への艦砲射撃を目論んだが、北緯09度45分 東経140度30分 / 北緯9.750度 東経140.500度 / 9.750; 140.500の地点にQシップらしい艦船がおり、この事からガジョン (USS Gudgeon, SS-211) の第2の哨戒での教訓を踏まえて、用心のため艦砲射撃を断念した。2月7日、ワフーは23日間の行動を終えて真珠湾に帰投。その際レーダーマストに軍艦旗2流と日章旗6流、白地に赤で書いた"SHOOT THE SUN ZA BITCHES"と書かれたペナントを翻し、敵を「一掃」したという意味を示す箒を潜望鏡架台に掲げて帰投した。以降、大戦果を収めた潜水艦艦長がモートン艦長の真似をして箒を掲げるようになった。ワフーは簡単な修理を行い、乗組員の努力の結果、2月15日までに終わった。
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「アンバージャック (SS-219)」の記事における「第3の哨戒 1943年1月 - 2月」の解説
1月24日、アンバージャックは3回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。当初は十分な休養を取ってから出撃するはずであったが、ソロモン方面の戦局は予断を許さないものであり、12日間で休養が打ち切られた。ブリスベンを出港したアンバージャックであったが、故障が発生したためブリスベンに引き返し、修理の上2日後の1月26日に再度出撃した。1月29日、テテパレ島付近でショートランド島への航路を通過した後北西方面に移動。2月1日にはブカ島の西方に位置していることを報告した。2月3日の報告では、アンバージャックはトレジャリー諸島の南西海域で日本の潜水艦を発見し、またブカ島の沖合いでスクーナーを発見し浮上砲戦で撃沈したことを伝えた。アンバージャックはベララベラ島、ブカ島とショートランドを結ぶ海域に移動するよう命令を受けた。 2月4日、アンバージャックは「5,000トン級輸送船と交戦、5本の魚雷を発射してこれを撃沈したが、アーサー・C・ビーマンが反撃の機銃掃射を食らって戦死し、リチャード・G・スターン中尉が負傷した」と、この哨戒での2度目の報告をした。2月8日、アンバージャックは南緯7度30分付近、ラノンガ島の西寄りの位置に移動し、ラバウルとブカ島、ショートランド間の航路を哨戒するよう命令を受けた。アンバージャックからの3度目で結果的に最後となった通信は2月14日に受信された。その内容は「2月13日夜に、敵駆逐艦2隻により潜行を強いられる。同じ日には日本軍パイロット2名を救助、捕虜とした」とあった。その後は引き続き南緯6度30分以北のラバウル航路の偵察を命じられた。予定では、ステフェン海峡(英語版)、ニューハノーバー島方面に移動して哨戒を行い、ヴィティアス海峡(英語版)を通過して再びソロモン海に入るというプランであったが、その後アンバージャックからの応答は無く、3月10日の定時報告も行われることはなかった。アンバージャックは1943年3月22日に喪失が推定された。
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