阿氐河荘の地頭として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 03:04 UTC 版)
文永10年(1273年)に父から紀伊国阿氐河上荘(現・和歌山県有田郡有田川町(旧清水町))の地頭職を継ぐものの、荘園の管理・運営に関しては父の代より荘園領主の寂楽寺(別当は園城寺僧の任快)や高野山との間で度々相論が起きるような状態であったことが、史料(当時の六波羅探題は北条時茂(北方)・北条時輔(南方)の二人)から窺える。宗親は、地頭の在地管理のあり方として荘園領主とは異なる点が見られ、紛争などを暴力的に解決しようとする傾向があった。この宗親の非法に対し、荘民たちが荘園領主の寂楽寺に訴えた時の百姓訴状(→地頭#概要の項(一番下)も参照)の中に見られる「ミミヲキリ、ハナヲソギ」という部分がそれをよく表しており、本家・円満院(桜井宮覚仁法親王)が「悪行をやめよ」と命じても「百姓の訴えには事実無根のものもあります。悪行とされることは、1カ条も兼任している預所の職務に関わるものはありません」と回答して強硬な姿勢であったという。
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