『塵壺』とは? わかりやすく解説

『塵壺』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:57 UTC 版)

河井継之助」の記事における「『塵壺』」の解説

河井継之助自筆旅日記で、現存する唯一の自著安政6年6月7日1859年7月6日)から同年12月22日1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市中央図書館から長岡市河井継之助記念館に移管展示されている。昭和13年1938年)には新潟県立長岡中学校和同会によって、また昭和49年1974年)には安藤英男 校注塵壷河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。昭和52年1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀校注付き桐箱入り複製本が、500限定製作されている。 江戸備中松山長崎備中松山における道中出来事記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付天気しか記していない日もある。 数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶により記述細かさばらつきがあったり別記意図して内容省略したりもしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 西国遊歴は、これ以降の継之助の政治的行動深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置占め出来事であり、本史料遊歴内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる備中松山から江戸までの帰路については『塵壺』には記されていなかったため、その日程や内容についてしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡発見されたため(『長岡市史』資料編3に所収)、江戸までの道中日程大まかな様子判明した。なお、京都備中松山間において行き山陽通り帰り山陰通って帰った事がこの書簡初め分かった。 ※この他河井継之助直接関わる史料としては、史談会 編『史談速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引参照)。

※この「『塵壺』」の解説は、「河井継之助」の解説の一部です。
「『塵壺』」を含む「河井継之助」の記事については、「河井継之助」の概要を参照ください。

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