『塵壺』
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河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。昭和13年(1938年)には新潟県立長岡中学校和同会によって、また昭和49年(1974年)には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。 江戸〜備中松山〜長崎〜備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。 数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶により記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりもしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 西国遊歴は、これ以降の継之助の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。 備中松山から江戸までの帰路については『塵壺』には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため(『長岡市史』資料編3に所収)、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都〜備中松山間において行きは山陽を通り、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分かった。 ※この他で河井継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘や大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。
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