『増補文献備考』(1908)の于山島
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「于山島」の記事における「『増補文献備考』(1908)の于山島」の解説
1908年に高宗の命により編纂された『増補文献備考』「輿地考」には、于山島と鬱陵島は東に三百五十里(約140km)(実際の距離は約144km)にあるとしていることから、朝鮮本土から同じ距離にある事がわかり距離もほぼ正確に測量している。また、高宗の命により編纂され「芋山」という文字があることから『承政院日記』を参考に書かれていると見られ、于山島と鬱陵島は同じ島で芋山であるとしている。この他、過去の文献にある于山島の記録をまとめた記述や、『東国文献備考』の文をそのまま転写した文「于山は則ち倭の所謂松島である。」の記述もあり、この当時鬱陵島の別名と見られていた于山を日本人のいう松島と誤認している。 「于山島 鬱陵島 在東三百五十里 一作蔚 一作芋 一作羽 一作武 二島一即芋山 『續』今爲鬱島郡」(于山島 鬱陵島 は東へ三百五十里(約140km)にある。蔚、芋、羽、武の字が付けられ、二島は一つですなわち芋山である。現在鬱島郡となっている。) 「輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也」(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は則ち倭の所謂松島である。)
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