権謀術数を駆使して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 08:12 UTC 版)
当初、木沢長政は畠山の被官人であったが、遊佐氏を生害したことにより出奔し、細川高国の被官となる。そして、河内国で戦功を立てたが、享禄3年(1530年)頃に、堺公方・足利義維を擁して細川氏の管領職争いを優位に進めつつあった細川晴元へ接近し、その被官となった。 享禄3年(1530年)11月から晴元の命令で京都防衛に務め、晴元の敵である細川高国に呼応して京都東山の将軍山城から襲来した内藤彦七と交戦した。しかし翌享禄4年(1531年)3月7日、高国による摂津侵攻の際には、当初は高国軍との対決を危険視してか一時的に姿を消す。ところが、6月4日の天王寺の戦い(大物崩れ)で高国を破って切腹に追い込んだ晴元ら堺公方派の勝利が確定した頃になると再び姿を現し、高国方の要人である細川尹賢を捕縛し、切腹させている。主君・義堯も晴元の姉妹が正室であった縁にも因るのか、堺公方の義維を支持する一員であった。 だが、高国という共通の外敵を滅ぼすと堺公方派の結束に分裂が見られるようになりはじめた。原因は晴元にあり、義維派の中心人物でありながら、対立してきた12代将軍足利義晴との和睦を図ろうとする晴元の方針に、晴元の有力家臣である三好元長が諫言。義堯も諌止側に回るなど、両者は次第に対立するようになる。 そんな中、主家・畠山氏を飛び越えて、晴元への接近を強めようとする長政の姿勢は、これを危険視する義堯と元長の結束を招いてしまう。誅滅を恐れた長政は、三好氏一門の中で元長を敵視する従叔父の三好政長と共謀、讒言によって晴元と元長を離間させることに成功した。義堯と元長からは2度に亘って居城の飯盛山城を攻撃され劣勢であったところを、享禄5年(1532年)6月には晴元の要請により蜂起した一向一揆の来援を得て撃退。(飯盛城の戦い)。しかも、この時の一向一揆の進撃は、義堯を自刃させたばかりか、畿内における三好氏の根拠地・和泉顕本寺まで襲って元長も自害に追い込み、堺公方を消滅させている。 しかし、一向宗と法華宗の対立を利用して政敵の排除に成功したものの、一向一揆軍はそのまま大和へ転進し、興福寺などの他宗派との衝突や暴動を起こすなど新たな騒乱を巻き起こしてしまう(天文の錯乱)。そのため、将軍義晴の下で管領となった晴元、管領代茨木長隆の命令を受けて、長政はその対応と鎮圧に追われることになる。そこで今度は一向一揆と対立する法華一揆と結び、その力で一向一揆を追討した。一向一揆の勢力を弱めることに成功すると、今度は法華一揆が邪魔になったため、天文5年(1536年)にこれを打倒した(天文法華の乱)。 その後、本願寺10世法主証如や証如の後見人蓮淳、下間頼慶などと書簡や進物のやり取りを盛んに行い、一向宗との関係修復に努めた。天文3年(1534年)には元長の遺児である三好長慶と晴元の仲介も果たし長慶を晴元の家臣に組み入れた。また、この時期、細川晴元が山城守護の任にあったが、上三郡(南山城)守護代として他家の家臣である長政を任じている。これは、細川京兆家の前の守護である畠山氏の被官として同国内に持っていた長政の人脈を生かしたいという思惑があったと考えられている。 こうして長政は畿内の実力者の1人として認識されるようになる。
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