下間頼慶とは? わかりやすく解説

下間頼慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/19 13:56 UTC 版)

 
下間 頼慶
頼慶と証如(山崎年信画)
時代 戦国時代
生誕 文明8年(1476年
死没 天文10年6月11日1541年7月14日
改名 松菊丸(幼名)
別名 源四郎、左衛門大夫上野介(通称)
蓮秀(法名)
官位 法眼
主君 実如証如
氏族 下間氏
父母 父:下間頼善
兄弟 頼玄、頼慶
光頼真頼、融慶
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下間 頼慶(しもつま らいけい)は、戦国時代武将で、本願寺坊官。下間頼善の次男で頼玄の弟。光頼真頼、融慶の父。通称は源四郎、左衛門大夫上野介。法名は蓮秀。後に法眼に任ぜられた。

本願寺第9世法主実如に仕え、永正3年(1506年)に摂津河内の門徒が実如の異母弟実賢を擁立して法主交替を求めた事件(河内国錯乱)では実如の命令で実賢・実順実従らを捕らえた。実如から孫の10世法主証如の補佐を命ぜられたが、享禄・天文の乱に際して甥の下間頼秀頼盛兄弟との確執から長男の光頼や興正寺蓮秀と共に本願寺を退去した。天文4年(1535年)に証如が敵対していた細川晴元と和平を結ぶと、主戦派として失脚した頼秀・頼盛兄弟に代わって本願寺へ帰参、和睦の使者として晴元の元へ赴き、幕府領の違乱を働く門徒の抑制と諸大名の外交に務めた[1][2][3]

天文5年(1536年)に奏者に就任、証如の指令で下間氏の宗家の座にも着くことになり、天文9年(1540年)には法眼となった。翌天文10年(1541年)に死去、光頼が後を継いだ[3][4]

脚注

  1. ^ 峰岸純夫 1984, p. 39-40.
  2. ^ 辻川達雄 1986, p. 125-127.
  3. ^ a b 柏原祐泉 & 薗田香融, p. 153.
  4. ^ 峰岸純夫 1984, p. 40-41,49.

参考文献





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