畠山・三好討伐
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詳細については飯盛城の戦いも参照。 享禄の錯乱の最中であった6月、大物崩れの勝者として細川高国を自害させ、声望を高めた細川晴元であったが、その晴元支持派だった蓮淳の名声も更に高まった。その頃、主家である河内守護畠山義堯から離反して晴元への転属を画策する木沢長政から、晴元への内応の仲介依頼を受けた蓮淳であったが、間もなくこの事を義堯に知られてしまう。 同年8月、木沢長政討伐に乗り出した義堯には三好元長まで加担した。一方、長政からの救援要請を受けた晴元は対応に苦慮。自分に度々意見する元長の存在を疎ましく思っていたとはいえ、劣勢の長政への肩入れも得策ではなかったためか、両軍への撤兵要請で事を収めようとした。 だが翌享禄5年(1532年)5月、畠山・三好連合は、木沢長政を再攻し木沢の居城飯盛山城を攻める。そこで、長政の一件の発端を作ったとして、晴元からは義堯と元長の討伐への協力を要請されると『単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦する』事態を蓮淳は了承した。 畿内における宗門の責任者であった蓮淳は、熱心な法華宗徒であった元長に対し深い恨みを抱いていた。それは以前、本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の一件を聞きつけた三好元長によって、本願寺側は弾圧を加えられた事であった。こうして本願寺法主・証如の名で一向一揆を起こすように文が各地の末寺に配られていった。 蓮淳は6月5日夜、17歳の法主・証如に自ら出陣させて大坂御坊に入れ、畿内における『浄土真宗と法華宗の最終決戦』と位置づけることで全畿内の門徒結集を促して、この戦いを大きく盛り上げたのである。 同年6月15日(7月17日)、10万(一説には20万)と言われた本願寺門徒の参戦で戦況は一変した。一揆にはいくつかの摂津国衆までも参加し、膨れ上がった大軍は河内に入った。飯盛山城を攻めていた畠山義堯と援軍の三好一秀は背後から一揆に襲われて一秀は討死、義堯は南河内まで逃げるが石川道場で自刃した。 一揆は法主の命のもと、20日(7月22日)には三好元長がいる堺南庄に攻め寄せ、包囲された元長は顕本寺で自害した。元長と行動を共にしていた足利義維は細川晴元に捕縛され、阿波国に移されて堺幕府は消滅した。 ところが、一向一揆にとって法華宗の象徴ともいうべき「仏敵」三好元長との戦いが終わっても一揆軍の蜂起は収まらず、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする門徒の声は次第に証如や蓮淳による静止命令をも振り払っていった。 7月10日、大和では守護格である興福寺と同国内で戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻め滅ぼすべく奈良の富商である橘屋主殿、蔵屋兵衛、雁金屋民部が1万の一揆を指導し、興福寺に攻め寄せた。この攻撃で興福寺菩提院方の恵心院と阿弥陀院が焼かれている。17日には本願寺にとっても縁がある大乗院(蓮如幼少時修行の場所)にも攻め寄せたが、興福寺方に押し戻されている。それでもこの攻撃で興福寺は主要伽藍、一乗院、大乗院、院家17坊を残して数百にものぼる僧坊、子院、院家、さらに美麗第一と称された東北院が炎上した。一揆は春日大社にも攻め込んで宝蔵と五箇屋を打ち破って略奪を行った。他にも猿沢池の鯉や春日大社の鹿もことごとく食い尽くされたと言われている。一揆は南下して23日に越智氏が籠る高取城の攻撃を始めたが、8月8日に筒井氏・越智氏と十市遠治の援軍によって一揆は吉野に撤退していった。この一件によりこの後、本願寺は面目を失墜して奈良の永代禁制を受け入れざるを得なくなった。
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