飯盛コレクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 13:46 UTC 版)
1922年以来、国内、朝鮮半島への鉱物の調査の際自身で標本を採取したり、室員を派遣して満州、北支、蒙古、南方諸地域から多数の鉱物標本を採集した。まだウランが核エネルギー源になることが知られていなかった時期から含ウラン鉱も採取していた。また、外国の研究機関や博物館からの寄贈や交換によっても標本を集めていた。 1940年10月ボストンで第一回応用原子核物理学会が開催され、多忙な父・里安の代理として室員で長男の飯盛武夫が矢崎為一 (やさきためいち)、渡辺慧 (わたなべさとし) とともに出席したが、その途上ワシントンの国立博物館に立ち寄り、福島県水晶山産の含ウラン諸鉱物の一揃いを寄贈したところ、交換に多数のカナダ産希元素鉱物を譲与され、日本の希元素鉱物研究に大いに役立った、という記述がある。 これらの膨大な標本は「飯盛コレクション」と呼ばれたが、戦争のため放射化学の研究が中断され、飯盛研究室の後継者が途絶えたため、宝の持ち腐れとなってしまった。(理研18号館に置いてあった朝鮮や南方地域で採集した分は戦災で焼失してしまった)。 これらの鉱物標本を有効に活用するために北海道大学理学部鉱物学教室、東京大学理学部化学教室、東京都立大学 (現首都大学東京) 理学部化学教室に寄贈されることになった。特に北海道大学分は4,000種類、3.5トンもあり、新聞で報道された。その一部はweb上に公開されていて閲覧することができる。
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