畠山氏との共闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 18:07 UTC 版)
永禄7年(1564年)三好長慶が病死し、三好三人衆と松永久秀の間で権力争いが始まり、畠山高政が松永方に付くと、永禄9年(1566年)2月、松浦孫八郎(信輝)と和泉国衆は、畠山高政の軍に加わり家原城で三好三人衆軍と合戦し、敗れて岸和田城に篭った。同年8月には、松浦虎が極楽寺に禁制を下しており、松浦孫八郎(信輝)と孫五郎(虎)の争いが続いていた様子が見られる。 その後、松浦光(信輝)が岸和田城を押さえたと見られ、元亀3年(1572年)11月には、久米田池郷と尾生との相論について裁定している。この頃、畠山家では畠山昭高(畠山高政の弟)が城主となって織田信長の妹を娶っており、信輝はそのまま畠山(織田)方について三好三人衆、篠原長房、三好義継、松永久秀らの信長包囲網方と敵対した。 元亀4年(1573年)4月、松浦光(信輝)は十河某を織田信長へ紹介しており、「(織田)信長、柴田修理亮(勝家)へ十河(某)より松肥(松浦肥前守光)を介して河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に(三好)義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を「契約」し、もし一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与える」(山崎文書)と約束されている。しかし、若江城は若江三人衆の裏切りにより同年11月に陥落したため、河内は織田家重臣の佐久間信盛が統治した。 この頃には山城や摂津に居た三好三人衆が離散・討死にしている。一方の畠山家では、同年6月に畠山昭高が遊佐信教に暗殺され、三好康長が高屋城に入城したが、天正3年(1575年)4月、織田軍により落城している(高屋城の戦い)。
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