片桐家とは? わかりやすく解説

片桐氏

(片桐家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/25 01:25 UTC 版)

片桐氏
丸に違い鷹の羽、亀甲の内花菱[1]
本姓 清和源氏満快流[2][3]
家祖 片切為基[2]
種別 武家
華族子爵
出身地 信濃国伊那郡片切郷
主な根拠地 近江国伊香郡高月村
大和国小泉藩
東京市小石川区
著名な人物 片桐且元
片桐貞昌(石州)
凡例 / Category:日本の氏族

片桐氏(かたぎりうじ、かたぎりし)は、武家華族だった日本氏族の一つ。安土桃山時代豊臣秀吉に仕えた片桐且元で著名な一族で、且元の嫡流は江戸時代に改易にされたが、且元の弟貞隆の系譜が大和国小泉藩1万6400石の藩主家として続き、維新後には華族の子爵家に列した[4]

歴史

中世

清和源氏満快流を称し[2][3]信濃国伊那郡片桐より興った[4]。『寛政重修諸家譜』によれば平安時代後期に信濃国上伊那郡一帯を領した片切為基に始まる豪族・片切氏の分家で近江に移住し「片桐」と改めたとしている[3]

吾妻鏡』には景重の跡を継いだ片切為康[5]が、源頼朝本人から歓待されたこと、平家に没収されていた所領が20数年ぶりに返還されたことが記されている(寿永3年「1184年」6月23日の項)。

承久の乱において、片切氏の一族は小笠原氏武田氏を主将として中山道を進んだ幕府軍の一部として上洛した。この時、片切源太、太郎、又太郎は上皇方に包囲された京都守護伊賀光季の手勢として奮戦した。片切三郎が『承久記』「尾張の国にして官軍合戦の事」に見えている。

この承久の乱の恩賞として、為頼の代に美濃国彦次郷を拝領し移住する。その後、近江国伊香郡高月村(現・滋賀県長浜市)に所領を得て土着する。

近世

為頼の子孫にあたる戦国時代の当主片桐直貞は北近江の戦国大名である浅井氏の家臣となり、その子且元は浅井氏の滅亡後に賤ヶ岳の七本槍の一人として豊臣政権下で奉行人の一人として頭角を現し摂津国茨木に1万石を与えられて諸侯に列した。関ヶ原の戦いの後は豊臣秀頼傅役家老を務めた。且元は豊臣家から2万石の所領を受ける一方で、徳川家から大和国竜田藩などに所領を受け、江戸幕府と豊臣家の両者から扶持を受ける特殊な家であった。しかし大坂冬の陣の開戦直前に大坂城を退去している。大坂の陣後には4万石に加増されるが、孫の貞就の代に無嗣改易となった[4]

一方、且元の弟貞隆は大和国小泉の地(奈良県大和郡山市小泉町)に1万石を与えられて小泉藩を立藩、後に加増され1万6千石となる。貞隆の子で小泉藩2代藩主となった貞昌(片桐石州)は茶人として名を馳せ茶道石州流の流祖として知られており、以後小泉藩主家は他家から2度養子を迎えたものの、断絶することなく廃藩置県まで存続した。また、小泉藩初代藩主貞隆の庶子で3千石を分知された貞晴の家系、および2代藩主貞昌の長子で1千石を分知された下條信隆の家系も明治維新まで旗本として存続した。

フェリーチェ・ベアトが元治元年(1864年)ころ愛宕山上から撮影した江戸のパノラマ写真には、真ん中に大和小泉藩片桐家上屋敷が写っている(『写真で見る江戸東京』『F.ベアト写真集』他)。

明治以降

最後の小泉藩主片桐貞篤は、明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還により小泉藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県まで藩知事に在職[6]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると片桐家も大名家として華族に列した[7][8]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 1]として片桐貞健が子爵に列せられた[10]

貞央の代の昭和前期に片桐子爵家の邸宅は東京市小石川区茗荷谷町にあった[11]

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 旧小泉藩は現米5590石(表高1万1100石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[9]

出典

  1. ^ 寛政重修諸家譜 & 清和源氏 満快流 片桐, p. 1021,1025.
  2. ^ a b c 太田 1934, p. 1513.
  3. ^ a b c 寛政重修諸家譜 & 清和源氏 満快流 片桐, p. 1018.
  4. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『片桐氏』 - コトバンク
  5. ^ 『吾妻鏡』には「為安」とあるが、『尊卑分脈』には、「為康」、長野県立歴史館蔵の片切氏系図(片切源祐筆)にも「為康」とある。片切氏の子孫には「康」の通字が続いていることから「安」は誤記である。
  6. ^ 新田完三 1984, p. 316.
  7. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  8. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  9. ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
  10. ^ 小田部雄次 2006, p. 330.
  11. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 200.

参考文献

関連項目


片桐家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 10:14 UTC 版)

石州流」の記事における「片桐家」の解説

大和小泉藩は石州三男片桐貞房継いだが、茶湯指南の職を継いだ訳ではない藤林宗源系譜が片桐家中を出て本庄家移ったこと(後述)も合わせると、おそらく片桐家では茶湯伝承関心がなかった時期があると考えられる歴代の中で8代藩主片桐貞信茶人として知られており、江戸千家風を加味して石州流称した伝えられるが、これもその後伝承され痕跡残っていない。 昭和初期小泉屋敷の主人だった水田秀光中心となって当時当主である片桐貞央子爵を軸に石州流大同団結図られた。その結果として、戦後財団法人高林庵(こうりんあん)が発足し、片桐家を宗家とする一種家元制度成立した15片桐貞泰は井沢宗達伝授受けている。現在は分派し石州流茶道宗家一般財団法人高林庵,大和郡山市)と茶道石州流宗家奈良市)という二つ宗家存在する一方長男下條信隆1624年 - 1716年)は石州庶子で、1000石の旗本として取り立てられた。代々父子相伝伝えられてきたが、石州から数えて7代目片桐宗猿1774年 - 1864年)の時に宗龍に伝授される。宗までは茶道の他に、華道盆石伝わっていたが分流した。宗龍より維新後磯貝宗和1854年 - 1940年)に茶道伝えられ東京広められた。この流れ石州流宗猿系称する。さらに分派がすすみ、石州流片桐宗猿派と称する2派に伝えられている。 石州の弟片桐貞晴は、3000石の旗本として取り立てられた。子孫片桐宗幽茶人として名を残すが、その後系譜伝えられていない

※この「片桐家」の解説は、「石州流」の解説の一部です。
「片桐家」を含む「石州流」の記事については、「石州流」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「片桐家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「片桐家」の関連用語

片桐家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



片桐家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの片桐氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石州流 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS