藤林宗源の流れ
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藤林宗源(1608年 - 1695年)は石州の側近で、後に小泉藩の家老となった人物で、石州とともに桑山宗仙に師事していた弟弟子にあたる。石州とほぼ同世代ではあるが、石州没後も20年以上長生きして、石州流の初期伝播に大きな功績がある。藤林流あるいは宗源派とも。 藤林宗源の系譜は片桐家の家臣で伝承され、江戸中期に大坂鉄砲組与力の本庄宗敬に伝授された。以来、本庄家を家元として現在に至っている。この流れは特に古石州流ともいう。これは、片桐本家の8代小泉藩主貞信が江戸千家の茶風を取り入れて「新石州流」を名乗ったことに対抗したものと伝えられる。 藤林宗源の門人に片桐家の家臣で大西閑斎という人物があり、石州の没後に大坂で茶湯指南をしていた。大口樵翁(1689年 - 1764年)は閑斎の門下に入って婿となったが、破門されて独立した。この流れを大口派と称する。 大口樵翁門下の林津南が鳥取藩茶道方となって以来、林家が代々この地で大口派を伝えてきた。幕末に林常甫が小川幸逸(? - 1910年)に伝授したのが現在の大口派の源である。鳥取では維新後に、小川幸逸の門下の古田貞が鳥取技芸女学校(現・鳥取敬愛高等学校)を設立し、教科として教えたことにより広まった。また、同じく幸逸門下の戸田宗掬は京都に大口派を伝え、これが次いで大阪に伝わった。さらに幸逸門下の前田良太郎の系譜が、東京や関西に伝わっている。秋田にも関西から大口派が伝わっている。現在は大徳寺芳春院の住職が家元として継承されている。
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