藤林宗源の流れとは? わかりやすく解説

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藤林宗源の流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 10:14 UTC 版)

石州流」の記事における「藤林宗源の流れ」の解説

藤林宗源1608年 - 1695年)は石州側近で、後に小泉藩家老となった人物で、石州とともに桑山宗仙師事していた弟弟子にあたる。石州とほぼ同世代ではあるが、石州没後20年上長生きして、石州流初期伝播大きな功績がある。藤林流あるいは宗源派とも。 藤林宗源系譜片桐家家臣伝承され江戸中期大坂鉄砲組与力本庄宗敬に伝授された。以来本庄家家元として現在に至っている。この流れは特に古石州流ともいう。これは、片桐本家8代小泉藩主貞信が江戸千家風を取り入れて「新石州流」を名乗ったことに対抗したものと伝えられる藤林宗源門人片桐家家臣大西閑斎という人物があり、石州没後大坂茶湯指南をしていた。大口翁(1689年 - 1764年)は閑斎の門下入って婿となったが、破門され独立した。この流れ大口派と称する大口門下津南鳥取藩茶道となって以来林家代々この地で大口派を伝えてきた。幕末常甫が小川幸逸(? - 1910年)に伝授したのが現在の大口派の源である。鳥取では維新後に、小川幸逸の門下古田貞が鳥取技芸女学校(現・鳥取敬愛高等学校)を設立し教科として教えたことにより広まったまた、同じく幸逸門下戸田宗掬は京都大口派を伝え、これが次いで大阪伝わった。さらに幸逸門下前田良太郎系譜が、東京関西伝わっている。秋田にも関西から大口派が伝わっている。現在は大徳寺芳春院住職家元として継承されている。

※この「藤林宗源の流れ」の解説は、「石州流」の解説の一部です。
「藤林宗源の流れ」を含む「石州流」の記事については、「石州流」の概要を参照ください。

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