室町時代と備中国
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室町時代初期から、備中国は細川氏による支配の強化が図られていた。南北朝時代に、細川氏は本貫の三河国から畿内・四国にその勢力圏を広げており、さらに中国への拠点として備後国、備中への影響を深めていた。当初は細川頼之・頼元ら、細川氏宗家にあたる「京兆家」による影響力の滲透を図っている。備中の国人となっていた庄氏とは特に連携を強め、やがて庄氏一門は京兆家内衆として細川氏の権力基盤を支えるようになる。室町期の守護は、支配力強化の手段として国衙の実効支配を押し進めることがあったが、京兆家も備中の依然広大な国衙に介入し、これを支配下に収めていった。後に備中守護には、細川頼之の末弟・満之を祖とする細川氏の一族が任じられ、代襲により「備中守護家」と称されるようになった。ただ京兆家の支配体制は維持されたままであったようで、守護家は守護権に基づいて、残された荘園に、あるいは直轄領などに経済基盤を置かざるを得なかったようである。また応永14年(1407年)に細川満国(「野州家」)が鴨山城を領有しており、これは備中国浅口郡の経営拠点となっていたと思われる。鎌倉時代には、このようにやや多元的な支配構造は一般的であったとは思われるが、備中では一門の利害が複雑に交叉する場合もあり、室町時代の守護家による一円的な支配基盤としては脆弱であった。さらに戦国時代への移行期には後継問題も加わり、その守護領国制は大きく揺らぐ事になる。 すなわち応仁・文明の乱の影響が全国に及んだ守護細川勝久の時代、備中でも国内を二分する兵乱が起きた。延徳3年(1491年)10月、京兆家内衆であった庄元資は、備後衆・松田(管)勢に与力を頼むと、守護方の倉(河邊之倉・宮内之倉)に討ち入り、守護の郎党、被官、五百余人を討ち取った。ここに備中大合戦と呼ばれる戦乱が始まったのである(蔭凉軒日録)。これに先立つ文明12年(1480年)3月、元資は京兆家内衆安富元家らと共に丹波に発向、一宮宮内大輔を討滅し、細川政元を救出している。後に両者は政元の感状をめぐり対立し、さらに延徳2年6月に備中河邊郷の代官職をめぐって安富新兵衛尉(元家)と争ったとの記録もある(安富氏は備中国衙の京兆家代官職と判断できる)。両者の間には度重なる因縁が生じており、さらに在地の守護被官とも確執が生じていたことも想像される状況では(守護の相伝領も存在する地域)、庄元資の行動は本格的な反乱を意図するものではなく、鬱憤晴らしに近いものであった可能性も推測される。 在京していた勝久は、翌年の明応元年(1492年)に軍勢を引き連れて備中に入国し、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破った。勝久は元資らを一旦は国外へ追い出したが、庄氏一門や彼らに与する者たち(安芸・石見の国人衆(毛利弘元らの名もある))は侮りがたく、和睦を結んでいる。そして勝久は国内の鎮撫に努めていたようだが、明応2年(1493年)頃に死去したようである。勝久は後継に、阿波守護家から細川成之の次子である之勝を迎えていたが、之勝は長享2年(1488年)の実兄・政之の死去により阿波守護家の家督を継ぎ、延徳3年6月には将軍足利義材より一字を与えられて義春と称している。守護家の後継には、「細川駿河守(人名不詳)」が推されたようであるが、庄元資は再び戦陣を開き、備中の混乱は続いた。その元資は、文亀2年(1502年)7月頃に死去したらしく、文亀3年(1503年)頃までには、義春の子之持が備中守護に任じられて混乱は収束に向かったようだが、永正9年(1512年)に之持は死去している。ところが近年の研究によって、永正5年(1508年)頃より、細川野州家分家の細川国豊(細川春倶の長子)が守護として活動し始めていることが判明した。しかし、国豊は間もなく没し、その後を継いだ九郎二郎某も永正12年(1515年)に19歳の若さで自害をしたため、野州家の細川政春が備中守護となっている。同じ備中国に之持と国豊の2人の守護が存在した背景には細川政元の死後に発生した後継者争い・永正の錯乱が原因であったとみられている。争いの当事者であった細川澄元は之持の弟、もう一方の当事者である細川高国は国豊の従兄で政春の実の息子でもあった。澄元と高国の争いの最中である永正4年(1507年)に、前将軍・足利義稙(義材)を戴き大内義興が中国・九州勢を率いて上洛を開始すると、やがて細川高国はこれに呼応し、永正5年(1508年)春に共に入京した。これにより将軍・足利義澄は追放され、義稙が将軍に復職、高国は京兆家家督に就任し、そして義興は管領代として幕政を執行した。この結果として、澄元派で阿波守護を継承していた之持の影響力は低下し、高国の意向で之持に代わる自派の備中守護として国豊が任命されたと考えられている。 2人の守護が並立した結果、守護家が備中の戦国大名へと変貌することは無かった。そして、政春の没後、備中守護の任命の記録はなく、これをもって備中守護家は事実上断絶した。 以後、備中では中世的権威は大いに衰え、有力国人勢力が台頭してするようになり、備中は守護代であった庄氏・石川氏、また庄氏との連携を深めていた三村氏、さらに秋庭氏・新見氏・丹治部氏・上野氏・陶山氏・中島氏・姫井氏などの備中36氏と称された諸勢力が、国人としてそれぞれ割拠する状況であった。これを助長したのは京兆家のみならず、大内氏、さらには覇を競う尼子氏らの介入が続いたことによる。 天文2年(1533年) になると、猿掛城の庄為資は出雲の尼子氏と結び、備中松山城(以後この頁では松山城と表記)の上野頼氏を打ち破りその拠点とし、諸氏と姻戚を結ぶと、備中では抜きん出た存在となる。天文5年(1536年)には、尼子晴久が本格的に備中に侵入し、国人衆を支配下におさめはじめた。やがて圧迫に耐えられなくなった細川通政(細川晴国の猶子)は、浅口の地から同じく野州家が所領としていた伊予宇摩郡へ逃れた。その頃通薫は伊予の川之江城に在ったが、やがて叔父通政(輝政)の名跡を継承し、旧領である備中・浅口の回復を目指した。いささか簡単な記述であるが、実際のところ野州家の動静については、備中史と同様に詳細は不明である。そもそも、馬部隆弘の説のように通政(輝政)が後世の創作による架空の人物とすれば一層不明となる。 ただ天文年間(1550年前後)に細川氏綱と書状の遣り取りを行ったことや、備中沿岸で起きた合戦に対し浅口衆に感状を出すなどの記録は散見される。通薫の時代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の影響が備中にも及んでおり、毛利氏の尼子氏に対する戦略に基づく形でその後援を受けたのである。
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