室町時代と備中国とは? わかりやすく解説

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室町時代と備中国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 14:27 UTC 版)

細川通薫」の記事における「室町時代と備中国」の解説

室町時代初期から、備中国細川氏による支配の強化図られていた。南北朝時代に、細川氏本貫三河国から畿内四国にその勢力圏広げており、さらに中国への拠点として備後国備中への影響深めていた。当初細川頼之頼元ら、細川氏宗家にあたる「京兆家」による影響力滲透図っている。備中の国となっていた庄氏とは特に連携強め、やがて庄氏一門京兆家内衆として細川氏権力基盤支えるようになる室町期守護は、支配力強化の手段として国衙実効支配押し進めることがあったが、京兆家備中依然広大な国衙介入し、これを支配下収めていった。後に備中守護には、細川頼之末弟・満之を祖とする細川氏一族任じられ、代襲により「備中守護家」と称されるようになった。ただ京兆家支配体制維持されたままであったようで、守護家は守護基づいて残され荘園に、あるいは直轄領などに経済基盤を置かざるを得なかったようである。また応永14年1407年)に細川満国(「野州家」)が鴨山城領有しており、これは備中国浅口郡経営拠点となっていたと思われる鎌倉時代には、このようにやや多元的な支配構造一般的であったとは思われるが、備中では一門利害複雑に交叉する場合もあり、室町時代守護家による一円的な支配基盤としては脆弱であった。さらに戦国時代へ移行期には後継問題加わり、その守護領国制大きく揺らぐ事になる。 すなわち応仁・文明の乱影響全国及んだ守護細川勝久時代備中でも国内二分する兵乱起きた延徳3年1491年10月京兆家内衆であった元資は、備後衆・松田(管)勢に与力を頼むと、守護方の倉(河邊之倉・宮内之倉)に討ち入り守護郎党被官五百余人討ち取った。ここに備中大合戦呼ばれる戦乱始まったのである(蔭凉軒日録)。これに先立つ文明12年1480年3月元資京兆家内衆安富元家と共に丹波発向一宮宮内大輔討滅し、細川政元救出している。後に両者は政元の感状をめぐり対立し、さらに延徳2年6月備中河邊郷の代官職めぐって安富新兵衛尉(元家)と争ったとの記録もある(安富氏備中国衙の京兆家代官職判断できる)。両者の間には度重なる因縁生じており、さらに在地守護被官とも確執生じていたことも想像される状況では(守護相伝領も存在する地域)、庄元資行動本格的な反乱意図するものではなく鬱憤晴らしに近いものであった可能性推測される在京していた勝久は、翌年明応元年1492年)に軍勢引き連れて備中入国し、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破った。勝久は元資らを一旦は国外へ追い出したが、庄氏一門や彼らに与する者たち(安芸石見の国人衆(毛利弘元らの名もある))は侮りがたく、和睦結んでいる。そして勝久は国内鎮撫努めてたようだが、明応2年1493年)頃に死去したようである。勝久は後継に、阿波守護家から細川成之次子である之勝を迎えていたが、之勝は長享2年1488年)の実兄・政之の死去により阿波守護家家督継ぎ延徳3年6月には将軍足利義材より一字与えられて義春と称している。守護家の後継には、「細川駿河守人名不詳)」が推されたようであるが、庄元資は再び戦陣開き備中混乱続いた。その元資は、文亀2年1502年7月頃に死去したらしく、文亀3年1503年)頃までには、義春の子之持が備中守護任じられ混乱収束向かったようだが、永正9年1512年)に之持は死去している。ところが近年の研究によって、永正5年1508年)頃より、細川野州家分家細川国豊細川春倶長子)が守護として活動し始めていることが判明した。しかし、国豊は間もなく没しその後継いだ九郎二郎某も永正12年1515年)に19歳若さ自害したため野州家細川政春備中守護となっている。同じ備中国に之持と国豊の2人守護存在した背景には細川政元死後発生した後継者争い永正の錯乱原因であったとみられている。争い当事者であった細川澄元は之持の弟、もう一方当事者である細川高国は国豊の従兄で政春の実の息子でもあった。澄元と高国争い最中である永正4年1507年)に、前将軍足利義稙(義材)を戴き大内義興中国・九州勢を率いて上洛開始すると、やがて細川高国はこれに呼応し永正5年1508年春に共に入京した。これにより将軍足利義澄追放され義稙将軍復職高国京兆家家督就任し、そして義興は管領代として幕政執行した。この結果として、澄元派で阿波守護継承していた之持の影響力低下し高国意向で之持に代わる自派備中守護として国豊が任命されたと考えられている。 2人守護並立した結果守護家が備中戦国大名へ変貌することは無かった。そして、政春の没後備中守護任命記録はなく、これをもって備中守護家事実上断絶した以後備中では中世権威大い衰え、有力国人勢力台頭してするようになり、備中守護代であった庄氏石川氏、また庄氏との連携深めていた三村氏、さらに秋庭氏・新見氏丹治部氏・上野氏・陶山氏中島氏姫井氏などの備中36氏と称され諸勢力が、国人としてそれぞれ割拠する状況であった。これを助長したのは京兆家のみならず大内氏さらには覇を競う尼子氏らの介入続いたことによる天文2年(1533年) になると、猿掛城庄為資出雲尼子氏と結び、備中松山城以後この頁では松山城表記の上野頼氏を打ち破りその拠点とし、諸氏姻戚を結ぶと、備中では抜きん出た存在となる。天文5年1536年)には、尼子晴久本格的に備中侵入し国人衆支配下におさめはじめた。やがて圧迫に耐えられなくなった細川通政細川晴国猶子)は、浅口の地から同じく野州家所領としていた伊予宇摩郡逃れたその頃通薫は伊予川之江城に在ったが、やがて叔父通政(輝政)の名跡継承し旧領である備中浅口回復目指した。いささか簡単な記述であるが、実際のところ野州家動静については、備中史と同様に詳細不明である。そもそも馬部隆弘の説のように通政(輝政)が後世の創作による架空の人物とすれば一層不明となる。 ただ天年間(1550年前後)に細川氏綱と書状の遣り取り行ったことや、備中沿岸起きた合戦対し浅口衆に感状を出すなどの記録散見される。通薫の時代には大内氏代わり中国地方覇者となった毛利氏影響備中にも及んでおり、毛利氏尼子氏対す戦略に基づく形でその後援を受けたのである

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