備中大合戦とは? わかりやすく解説

備中大合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 02:23 UTC 版)

細川勝久」の記事における「備中大合戦」の解説

この大乱機に備中でも寺社領公家領荘園対す土着武士の争奪戦激化していた。それ以前寛正2年1461年)、新見荘では守護被官安富氏代官支配退け東寺直轄支配要求する土一揆発生している。これは守護収奪対す反発高まってきていたことも遠因思われる備中守護代元資伊豆守称し猿掛城本拠勢力強めていた。応仁の乱最中文明3年1471年)、守護細川氏属して備後柏村菅氏戦い、弟資長を失っている。文明12年1480年3月安富元家と共に丹波国発向一宮宮内大輔討滅し、後にその功を元家と争っている。庄氏は本来京兆家が被官化していたが、やがて備中守護家被官ともなっていた。 勝久が京兆家管領細川政元対立すると、 延徳3年1491年)にはその命を受けた元資との間に抗争生じた元資讃岐香西氏備前国松田元藤らと連携して守護久方の軍勢打ち破り500余人討ち取り守護方の倉を略奪したいわゆる「備中大合戦」が勃発したのである在京していた勝久は翌明応元年1492年)に軍勢引き連れて備中入国し合戦およんだ。この時政元側の庄元資には三村四郎新見国経、秋庭元重らが、勝久側には石川源三、庄久資らがそれぞれ加わっている。勝久は庄元資らを破り元資国外へ追い出したが、京兆家援助を受ける元資安芸国石見国国人毛利弘元ら)の合力で再び備中出陣し、勝久と和睦した。形の上では守護勝利終わったものの、以後守護権威大い衰え、有力国人勢力台頭してくるのである。勝久が明応2年1493年)に詠んだ歌が金言和歌集収録されているが、その後活動の記録途絶えるため、死去した推測されている。 勝久の後継には阿波守護家から細川成之次男である之勝を迎えていたが、之勝は後に阿波守護家戻り家督継ぎ義春と称したため、備中守護家後継空席となっていた。そこで細川一門である細川駿河守細川政清)と庄氏との間で対立生じ、備中大合戦は再開され庄氏推す阿波守護家出身細川之持(義春の子)が備中守護となった。之持は政元の養子1人である細川澄元の兄である。 永正の錯乱の後に澄元は一時京兆家当主となるが、やがて澄元に代わり野州家出身細川高国京兆家家督握った。之持の死後高国実父である細川政春備中守護となり、その子孫備中において一定の勢力保持していたものの、戦国時代においては既に守護としての実権はなかった。備中守護代であった庄氏石川氏、また庄氏との連携深めていた三村氏、さらに伊勢氏陶山氏などの備中36氏と称され諸勢力国人としてそれぞれ割拠する状況であった。これを助長したのは京兆家のみならず大内氏さらには覇を競う尼子氏らの介入続いたことによる。これらのことも相まって守護家が備中戦国大名へ変貌することは無かった戦国大名として備中制したのは毛利氏であった

※この「備中大合戦」の解説は、「細川勝久」の解説の一部です。
「備中大合戦」を含む「細川勝久」の記事については、「細川勝久」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「備中大合戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「備中大合戦」の関連用語

備中大合戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



備中大合戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの細川勝久 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS