備中大合戦
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この大乱を機に、備中でも寺社領や公家領の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化していた。それ以前に寛正2年(1461年)、新見荘では守護被官安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生している。これは守護の収奪に対する反発が高まってきていたことも遠因と思われる。 備中守護代庄元資は伊豆守を称し、猿掛城を本拠に勢力を強めていた。応仁の乱の最中の文明3年(1471年)、守護細川氏に属して備後柏村で菅氏と戦い、弟資長を失っている。文明12年(1480年)3月、安富元家らと共に丹波国に発向、一宮宮内大輔を討滅し、後にその功を元家と争っている。庄氏は本来京兆家が被官化していたが、やがて備中守護家の被官ともなっていた。 勝久が京兆家の管領細川政元と対立すると、 延徳3年(1491年)にはその命を受けた庄元資との間に抗争が生じた。元資は讃岐の香西氏、備前国の松田元藤らと連携して守護勝久方の軍勢を打ち破り、500余人を討ち取り守護方の倉を略奪した。いわゆる「備中大合戦」が勃発したのである。 在京していた勝久は翌明応元年(1492年)に軍勢を引き連れて備中に入国し、合戦におよんだ。この時政元側の庄元資には三村新四郎、新見国経、秋庭元重らが、勝久側には石川源三、庄久資らがそれぞれ加わっている。勝久は庄元資らを破り元資を国外へ追い出したが、京兆家の援助を受ける元資は安芸国・石見国の国人(毛利弘元ら)の合力で再び備中へ出陣し、勝久と和睦した。形の上では守護の勝利に終わったものの、以後守護の権威は大いに衰え、有力国人勢力が台頭してくるのである。勝久が明応2年(1493年)に詠んだ歌が金言和歌集に収録されているが、その後活動の記録が途絶えるため、死去したと推測されている。 勝久の後継には阿波守護家から細川成之の次男である之勝を迎えていたが、之勝は後に阿波守護家に戻り家督を継ぎ義春と称したため、備中守護家の後継は空席となっていた。そこで細川一門である細川駿河守(細川政清)と庄氏との間で対立が生じ、備中大合戦は再開され、庄氏が推す阿波守護家出身の細川之持(義春の子)が備中守護となった。之持は政元の養子の1人である細川澄元の兄である。 永正の錯乱の後に澄元は一時京兆家の当主となるが、やがて澄元に代わり野州家出身の細川高国が京兆家の家督を握った。之持の死後、高国の実父である細川政春が備中守護となり、その子孫は備中において一定の勢力は保持していたものの、戦国時代においては既に守護としての実権はなかった。備中は守護代であった庄氏・石川氏、また庄氏との連携を深めていた三村氏、さらに伊勢氏・陶山氏などの備中36氏と称された諸勢力が国人としてそれぞれ割拠する状況であった。これを助長したのは京兆家のみならず、大内氏、さらには覇を競う尼子氏らの介入が続いたことによる。これらのことも相まって守護家が備中の戦国大名へと変貌することは無かった。戦国大名として備中を制したのは毛利氏であった。
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