備中守護家のなりたち
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細川氏は南北朝時代に同族の足利氏の伸張と共に本貫の三河国から畿内・四国にその勢力圏を広げており、中国への拠点として備後国、備中国への影響を深めていた。当初は本家にあたる京兆家による影響力の滲透を図ったようだが、後に備中守護には細川満之を祖とする細川氏の一族が任じられ、この系統は備中守護家と称されるようになった。勝久は満之の曾孫にあたる。三河にも所領があり、宝飯郡市田付近にあったことが確認できる。満之の兄・細川頼有の曾孫である和泉上守護家の細川教春は野口城・市田城を領有し、勝久は茂松城(御津町広石)を領有していた。 父から受け継いだ所領は他にも数か国(讃岐国那珂郡子松(小松)郷など)に存在したようであるが、幕府の職制としては備中守護を世襲した。しかし守護家の備中統制は成立時よりあまり強固なものではなかったとされる。 鎌倉時代の守護の職権が大犯三箇条と大番役などの軍事・警察的な性格なものであったの比べると、室町時代の守護は、幕府により国内の荘園・公領へ統治的・経済的支配を及ぼしうる様々な権限を付与された。すなわち大犯三ヶ条の検断権、に加えて興国7年/貞和2年(1346年)には刈田狼藉の検断権、使節遵行権(刈田狼藉は武士間の所領紛争に伴って発生する実力行使であり、使節遵行は幕府の判決内容を現地で強制執行することである。この両者により、守護は国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得した)が、正平7年/文和元年(1352年)には半済給付権(軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、やがて全国で半済は恒久化されるようになる)、闕所地給付権、段銭・棟別銭徴収権などが付与された。守護はこれらの権限を根拠として、守護使を荘園・公領へ派遣し、段銭・兵糧・人夫などを徴発するようになった。また国衙の機能を実質的に吸収し、国衙の支配する公領(郡・郷・保など)を自らの支配下へと組み込んだのである。 備中は南北朝時代を経ても依然広大な国衙を有しており、京兆家は備中を事実上の支配下においた。守護が満之に移った後も勝久に到るまでこの構図は変わらず、段銭徴収を行うにしても京兆家の意向を伺う必要性があったようである。また応永14年(1407年)に分家の野州家当主細川満国が鴨山城を領有しており、これは備中浅口郡の経営拠点となっていたと思われる。 これらの事も相まって、守護家には領国統制に関する主体性の発揮と言う点で不満が蓄積されていたようである。さらに京兆家の支配の及ばない地域での守護側による徴収は、かなり過酷なものであったようである。つまりこの状況は、守護家による一円的な支配基盤が脆弱であったことを示唆しており、さらに戦国時代への移行期には後継問題も加わり、その守護領国制は大きく揺らぐ事になる。
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