備中松山・長崎への遊歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:57 UTC 版)
「河井継之助」の記事における「備中松山・長崎への遊歴」の解説
安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀藩、長崎、熊本藩も訪れ、知見を広める。藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになる三島中州が相手をする。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった『王文成公全集』に書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。
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