備中松山藩の事例とは? わかりやすく解説

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備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 21:43 UTC 版)

藩札」の記事における「備中松山藩の事例(山田方谷新札切り替え)」の解説

備中松山藩 備中国松山藩は、元禄年間当時藩主であった安藤氏発行し次の領主であった石川氏もこれに倣った延享元年1744年)に新たに板倉氏が入封すると、直ちに五匁、一匁銀札発行したが、国内荒廃などによって表高5万に対して実収2万石しかなかった同藩財政逼迫して天保年間には準備金底を突いた上に更に大量の五匁発行したこのため藩札価値大暴落して財政を却って悪化させる原因となった。これに対して執政就任した山田方谷敢えて藩札廃止3年間に限って額面価格での引き取りを行う事を表明したその結果藩札481貫110匁(金換算8,019両)が回収され未発分の230190匁(同3,836両)と合わせた合計711300匁(同11,855両、当時の藩財政の約1/6当にあたる)が、方谷命令によって嘉永5年1852年9月5日領内高梁川にある近似川原(ちかのりがわら)に集められ藩士領民目前焼却処分された。その後方谷は五匁、十匁、百匁からなる「永銭」と呼ばれる額面新し藩札発行して準備金不正に流用される事の無い様に厳し管理下に置いた。そのため、藩札信用回復される一方、その準備金適切な投資貸し出しによって裏打ちされ殖産興業成功収めて10万と言われた藩の借財数年完済されて、藩札額面上の信用を得るという好循環招いた

※この「備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)」の解説は、「藩札」の解説の一部です。
「備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)」を含む「藩札」の記事については、「藩札」の概要を参照ください。

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