備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)
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「藩札」の記事における「備中松山藩の事例(山田方谷の新札切り替え)」の解説
備中松山藩 備中国松山藩は、元禄年間に当時の藩主であった安藤氏が発行し、次の領主であった石川氏もこれに倣った。延享元年(1744年)に新たに板倉氏が入封すると、直ちに五匁、一匁の銀札を発行したが、国内の荒廃などによって表高5万石に対して実収2万石しかなかった同藩財政は逼迫して天保年間には準備金が底を突いた上に更に大量の五匁札を発行した。このため、藩札の価値は大暴落して財政を却って悪化させる原因となった。これに対して藩執政に就任した山田方谷は敢えて藩札の廃止と3年間に限って額面価格での引き取りを行う事を表明した。その結果藩札481貫110匁(金換算8,019両)が回収され、未発行分の230貫190匁(同3,836両)と合わせた合計711貫300匁(同11,855両、当時の藩財政の約1/6相当にあたる)が、方谷の命令によって嘉永5年(1852年)9月5日領内の高梁川にある近似川原(ちかのりがわら)に集められた藩士・領民の目前で焼却処分された。その後方谷は五匁、十匁、百匁からなる「永銭」と呼ばれる額面の新しい藩札を発行して、準備金が不正に流用される事の無い様に厳しい管理下に置いた。そのため、藩札の信用は回復される一方、その準備金の適切な投資・貸し出しによって裏打ちされた殖産興業は成功を収めて、10万両と言われた藩の借財は数年で完済されて、藩札も額面以上の信用を得るという好循環を招いた。
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