備中派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:58 UTC 版)
上記の野田派とは別系統で原龍渓が備中倉敷に伝えた起倒流である。 原龍渓は中島 (倉敷市)小溝の人である。源之真ともいう。旧姓は勝田で原家の養子となった。九歳で京都に上り医術と起倒流を学び、帰郷して中島 (倉敷市)小溝に道場を開いた。新見藩の御典医(藩医)を勤めたこともあった。文久元年四月二十七日(1861年)、六十歳で歿す。 原龍渓の門人に白神伊輔正則と高尾右平治がいた。 白神伊輔正則は、起倒流を原竜渓に不遷流を武田物外と武田禎二から学び、二つの流派を合わせて兼学流として教えていた。白神伊輔は中島 (倉敷市)の人であり、幼少より武術を好み原龍渓より起倒流を学んだ。また、武田物外と武田禎二から不遷流、赤木六大夫長定から竹内流(呑敵流)を学び免許皆伝を得た。これらの他に神道無念流、直心影流、清心流、平心流などを修め八流派の免許を持っていた。中島 (倉敷市)に練武館という道場を開き、1600人余りの門人を育てた。大正2年(1913年)に大日本武徳会より教士を授けられた。大正4年4月10日(1915年)82歳で歿す。墓は倉敷市中島の高蔵寺にある。白神伊輔は兼学流と称しているが、弟子の白神光蔵は起倒流の柔術家として『船穂町誌』等に記載があることや他の弟子が不遷流を名乗っていることから、二つの流派をそのまま兼学していたものと考えられる。 白神伊輔は柔術角力の興行をやったことがあり、不遷流の田邊虎次郎に招待状を出している。田邊虎次郎の子の田邊又右衛門もこの柔術角力の興行に参加していた。 高尾右平治は備中国芦高村笹沖の人である。はじめ神崎という師範から剣術を学び19歳で免許を得る。後、倉敷小溝の原龍渓に師事し起倒流を学んだ。高尾右平治の弟子には竹内起倒流を開いた小野田坂太郎がいる。 小野田坂太郎は岡山市岡町に明武館道場を開いていた人物である。小野田は高尾右平治から起倒流を6年学び、作州垪和に3年間滞在して竹内藤一郎久則に就いて竹内流を修行した。また岡山に流浪してきた浪人から真妙流を学んだ。 1897年(明治30年)明武館を設立した。また各地を遍歴して兵庫県家島、香川県小豆島土圧町他に6か所、豊島、真島、岡山県内の犬島、福田、青江、赤磐郡高陽村2か所、邑久郡朝日村、上道郡六番、光政村、今村平田、今保などに24支部を作った。門人は七千人いたとされる。京都武徳会本部発会式大会では講道館四天王山下義韶と組んで口論した後試合し引き分けている。 この明武館には武南喜三太、年常宗十郎、浅野市太郎、三宅太留次、真鶴、板野柾太郎、岡崎、浜野英太郎、長瀬元治、浅野忠兵衛がいた。 浅野市太郎の弟子には尾高茂がいた。
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