ブラジル柔道の発展に貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:10 UTC 版)
「内藤克俊」の記事における「ブラジル柔道の発展に貢献」の解説
内藤は台湾在住の後、1928年28歳のとき、夫人と長男とともに夢であったブラジルへ移住、後の人生をブラジル開拓事業に捧げる。サンパウロ州スザノ市で野菜や果物などを栽培する農業に従事する傍ら、スザノの自宅近くに茅葺の柔道場「推開道場」を開き、日系人やブラジル人を指導した。内藤を慕い、多い時は100人前後の生徒が集まり道場は盛況を極めたという。北米大卒で五輪メダリストだと吹聴するなと家族に諭した。ベレンで前田光世に遭遇したこともある。ブラジルで最初に柔道と剣道を纏めた組織であった伯國柔劒道聯盟が発足したのは1933年だったが、内藤が発起人の一人であった事が「伯國柔劒道聯盟趣意書」で分かる。また、同連盟が同年11月に発行した「武徳」という雑誌にはこの段階でも柔道三段、と載っている。第二回伯國柔劒道聯盟武道大会で金光弥一兵衛(起倒流備中派柔術、講道館柔道九段)の町道場出身の柔道家小野安一と対戦。審判の制止を聞かなかった小野に関節技で腕を折られる。増田俊也は内藤が参ったをしたのに腕を折ったので小野はここで失格になったとしている。一方で石井千秋は小野は勝ち進み優勝したとしている。小野は小野柔道館(小野道場)を開設し、のちにブラジル全土に勢力を広げる。同連盟は日米開戦時、当局の命で解散となった。戦後、推開道場は道場対抗戦で二連覇。1948年、推開道場は240畳の白亜の新道場に。1953年、全伯柔道有段者会が発足し、会長に。同年、ブラジル柔道三大派閥大河内派(講道館非公認「全伯講道館有段者会」)、鹿島真楊流柔術から転じ日本国粋主義で売る小川派(小川武道館)、小野派(小野柔道館)らをまとめブラジル柔道が大同団結する仲介役をになうが大河内辰夫がエリオ・グレイシーやプロレスラー、プロボクサーらと興行試合をやっていた小野安一一派とは一緒にやれないと譲らず頓挫。1958年、大河内を会長とする全伯講道館有段者会が講道館から承認され、以降、内藤は目立つ存在ではなくなる。1964年東京オリンピックの際にレスリング協会からの招きで来日した。1969年5月講道館七段を贈られる。同年9月、ブラジルで亡くなる。ブラジルでは、園芸の分野でも成功し、後年、同国産業協会会長に就任した。スザノ市内には現在も「カツトシ・ナイトウ通り」があるという。 1995年5月5日、日本ペンステート同窓会は、記録に残る最初のペンシルベニア州立大学日本人卒業生でもある内藤克俊の偉業を称え、ブラジルおよび日本から長男内藤克寛夫妻ら親族を迎え、内藤克俊プラーク(plaque)をジョアブ・トーマス学長臨席の元で、同窓会長本田博より同学に献呈した。
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