金光弥一兵衛とは? わかりやすく解説

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金光弥一兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 22:45 UTC 版)

金光 弥一兵衛(かなみつ やいちひょうえ[注釈 1]1892年3月30日 - 1966年12月25日)は、日本柔術家柔道家講道館9段・大日本武徳会柔道教士)。


注釈

  1. ^ 文献によっては、姓の読みについて“かみつ”としているもの[1]、名の読みについて“やいちべい”ないし“やいちべえ”としているものもあるが[1][2]、金光の自著『旺文社スポーツ・シリーズ 柔道』に拠れば正しくは“かなみつ やいちひょうえ”である。
  2. ^ 四高側が禁止技の足緘と同じ技だと主張するのに対し、六高側は足緘とは別の技で禁止技には該当せず、その証拠に審判の磯貝一もこれを認めていると主張[6]
  3. ^ 早川勝の4歳上の実兄であり、のちに北海道柔道連盟会長を務めた。最終段位は講道館8段。王子製紙の専務を務めるなど実業家としても活躍した[8]
  4. ^ 書籍『柔道大事典』では原型は足挟み(首絞、ヘッドシザース)だとしており、またノンフィクションライターの増田俊也高専柔道で足挟みが禁止技だったからこそ、ルールの隙をついて生まれた技だとしている[11]
  5. ^ ただし六高はこの大会では三角絞は用いず、技が初めて公式戦で使用されたのは同月下旬に開催された大日本武徳会主催の青年演武大会で、六高「六華会」の選手として出場した早川勝早大「大化会」の田中正二3段を寝技に引き込んで三角に極めたのが初めてであった。のちに試合規定が変更され、寝技への引き込みが禁止されるきっかけの1つとなった試合とも言われている[6]
  6. ^ この試合は照明設備の乏しい明治神宮外苑道場で夕暮れ時に行われたため、永岡主審の「抑え込み!」の声が掛かっても観客はどちらが抑え込んだのか暗くて判らず、会場は混乱したようである。また橋本はこの抑え込みで肋骨を骨折したとの説もあるが、真偽は不明[12]
  7. ^ 1940年の昭和天覧試合柔道競技は府県選士、指定選士、篤志家試合、特選演武、形の5種が実施された。このうち特選演武に抜擢されたのは金光8段(49歳)および天野品市8段(57歳)、中野正三8段(53歳)、安芸清利8段(51歳)の4名で、金光-天野と中野-安芸による乱取がそれぞれ行われている[16]
  8. ^ 段位発行問題に関しては、まず1959年1月に嘗ての門下生である玉島市柔道連盟会長の新海肇6段から全日本柔道連盟へその旨の密告があった。これを受けて全柔連理事会では、事実であれば「加盟団体に属する者の段位は講道館発行のもの」と定めた連盟規約第15条に抵触する案件として専門委員会による調査を行い、その密告内容が事実である事の確認を行った。同年5月4日に全柔連、中国柔道連盟および金光との間で話し合いが行われ、6月末迄に金光が善処する事を条件に円満解決とする方針が一旦は了解された(あくまでも全柔連側の弁)が、6月29日付で金光側から嘉納履正全柔連会長宛に手紙が届き、その中には「玄友会は今日まで種々の歩み寄りを提示してきたにも拘らず、貴連盟より何ら妥協案を示されなかった事は真に遺憾であり、折衝の打ち切りを提案する」「玄友会はいずれの上部組織にも属さない独立団体であり、全柔連の規約に関して一切の制約を受けるものではない」と綴られていた。全柔連理事会では期限を延長して7月末迄に全柔連の線に協調するよう呼び掛けるも、金光はこれに応じず、結局両者は喧嘩別れする形となってしまった[17]

出典

  1. ^ a b c 嘉納行光川村禎三中村良三醍醐敏郎竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)(初版第1刷)、アテネ書房、日本(原著1999年11月21日)。ISBN 4871522059。"金光彌一兵衛 -かねみつやいちべい"。 
  2. ^ a b c 工藤雷介 (1965年12月1日). “九段 金光弥一兵衛”. 柔道名鑑、6頁 (柔道名鑑刊行会) 
  3. ^ a b c d e f g h i くろだたけし (1984年1月20日). “名選手ものがたり51 金光弥一兵衛9段 -師弟共同で三角絞めを発明した寝技の大家-”. 近代柔道(1984年1月号)、66頁 (ベースボール・マガジン社) 
  4. ^ a b 三宅悦次 (1980年1月3日). “かなまつやいちひょうえ -金光弥一兵衛”. 岡山県大百科事典(上)、637頁 (山陽新聞社) 
  5. ^ a b 野間清治 (1934年11月25日). “柔道教士”. 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、800頁 (大日本雄弁会講談社) 
  6. ^ a b c d e f g h i j k 工藤雷介『秘録日本柔道』東京スポーツ新聞社、1973年5月25日、255-262頁。"学生柔道の伝統"。 
  7. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年5月10日、177-178頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/99。"足挫十字固"。 
  8. ^ くろだたけし (1985年11月20日). “名選手ものがたり72 早川昇・勝兄弟 -そろって8段で財界人の異色の兄弟-”. 近代柔道(1985年11月号)、80頁 (ベースボール・マガジン社) 
  9. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年-05-10、148-150頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/85。"松葉搦の絞"。 
  10. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年5月10日、171-175頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/96。"腕挫松葉固"。 
  11. ^ 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか新潮社、日本(原著2011年9月30日)、335頁。 
  12. ^ a b 松本鳴弦楼 (1956年5月15日). “暗夜の固め技、肋骨をブチ折る”. 柔道名試合物語、66-73頁 (河出書房) 
  13. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年5月10日、87頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/。"右の他横落、帯落、谷落、朽木倒、引込返、横分、山嵐と名付けらるゝ業あれ共、理論に走り實際に適せぬもの又は業として妙味乏しきものなれば省略する。"。 
  14. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年5月10日、45頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/。"巻腰"。 
  15. ^ 新式柔道隆文館、日本、1926年5月10日、45-46頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020063/。"抱込腰"。 
  16. ^ 工藤雷介 (1973年5月25日). “天覧試合と名勝負”. 秘録日本柔道、214頁 (東京スポーツ新聞社) 
  17. ^ a b c 講道館編集部 (1959年10月1日). “金光九段の段発行問題”. 機関誌「柔道」(1959年10月号)、43-45頁 (財団法人講道館) 


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