醍醐敏郎とは? わかりやすく解説

醍醐敏郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 09:11 UTC 版)

醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日[注釈 1] - 2021年10月10日)は、日本柔道家講道館十段)。


注釈

  1. ^ 正確には1925年12月26日生まれだが、出生届が遅れたため戸籍上は年明け1月2日の生まれとなっている[1]
  2. ^ 同校柔道部は後に、世界王者となる篠巻政利明治大学 - 新日本製鐵)や高木長之助日本大学 - 警視庁)らの逸材も輩出している。
  3. ^ 後に柔道で醍醐のライバルとなる吉松義彦は、2年前の同大会で個人戦を制し第20代横綱となっていた。
  4. ^ この頃の警視庁は現在のように道場は無く、あちこちの警察署機動隊の道場を間借りしての稽古であった[2]
  5. ^ 80日近い巡行をすると帰国は翌52年2月となり、5月に控える全日本選手権大会を前に稽古をする時間が殆ど取れなくなるため、周囲からは心配する声が聞かれたという[4]。それでも醍醐は海外に行った事がなかったため渡欧は大変魅力的に映り、実際に帰国後52年の選手権は獲得できなかったが、後に「色々と見聞を広める事ができたし、良い思い出もできたし、行って良かった。」と語っていた[4]
  6. ^ ただし醍醐が欧州選抜の10人と連続掛け試合を行った際、9人を抜いて10人目のベルナール・パリゼ英語版初段と引き分けると、現地フランスの観衆達は“全日本王者と引き分けた”という喜びから、国家ラ・マルセイエーズ』を大合唱する騒ぎにもなったという[10]
  7. ^ ただし当時は柔道=無差別級という風潮が根強く、無差別級代表の神永昭夫が決勝戦でオランダアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わると、当時のマスメディア等からは日本柔道界へのバッシングが浴びせられた。
  8. ^ この時に醍醐と同じく9段になったのは、羽鳥輝久、宮川善一、橋元親湊庄市、高嶋吉次郎、川村禎三安部一郎大沢慶己夏井昇吉の9名[15]
  9. ^ 決まり技は公式には大外返となっているが、醍醐の回想に拠れば厳密には出足払であったという[4]。即ち、醍醐が返した際に吉松は右足を抜き、抜いて前に出ていた吉松の右足を醍醐は畳み掛けるように左足で払っており、実際に吉松は後方に倒れるのではなく、横転している。インタビューで「訂正を申し込まなかったのか」と問われた醍醐は、「どっちでも良いと思っていた。あははは」と笑い飛ばしていた[4]
  10. ^ 当時の試合場は試合場と場外の間に15cmの段差が設けられていた[13]
  11. ^ 東京都団体チームのメンバーは醍醐のほか伊藤信夫5段と水谷英男5段。
  12. ^ 同大会での他の優勝者は、20歳未満の部・熊切昭雄3段、38歳未満の部・中村常男6段、44歳未満の部・岡本信晴6段、44歳以上の部・曽根幸蔵7段であった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw 本橋端奈子 (2013年1月1日). “講道館柔道十段物語 第15回 -戦後柔道の発展を牽引 醍醐敏郎十段-”. 機関誌「柔道」(2013年1月号)、7-20頁 (財団法人講道館) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 村田直樹 (2006年3月20日). “新十段に聞く -スペシャルインタビュー(2) 醍醐敏郎10段-”. 近代柔道(2006年3月号)、38-39頁 (ベースボール・マガジン社) 
  3. ^ a b c d e 工藤雷介 (1965年12月1日). “七段 醍醐敏郎”. 柔道名鑑、118頁 (柔道名鑑刊行会) 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w “シリーズ歴代優勝者に聞く!(特別版) 昭和26・29年優勝 醍醐敏郎”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、6-9頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟). (2009年4月29日) 
  5. ^ a b c 山縣淳男 (1999年11月21日). “醍醐敏郎 -だいごとしろう”. 柔道大事典、282頁 (アテネ書房) 
  6. ^ a b c d e f くろだたけし (1980年3月20日). “名選手ものがたり5 8段醍醐敏郎の巻”. 近代柔道(1980年3月号)、?頁 (ベースボール・マガジン社) 
  7. ^ a b c d 丸山三造 (2009年4月29日). “木村政彦と石川隆彦が「異例の二人優勝」”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、28-29頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  8. ^ a b c d 丸山三造 (2009年4月29日). “石川隆彦が広瀬巌に攻め勝って2連覇”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、30-31頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  9. ^ a b c d e f 石黒敬七 (2009年4月29日). “石川隆彦の3連覇阻み。醍醐敏郎が初優勝”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、32-33頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  10. ^ a b 吉松義彦 (1985年2月10日). “IV.輝く日本選手権 -第四回日本選手権-”. 柔道ひとすじ、105-108頁 (葦書房) 
  11. ^ a b c d 丸山三造 (2009年4月29日). “吉松義彦が石川隆彦を破り念願の初栄冠”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、34-35頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  12. ^ a b c d e f 菊池揚二 (2009年4月29日). “醍醐敏郎が3年ぶりに王座返り咲き”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、38-39頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  13. ^ a b c d e f g h i 工藤雷助 (1973年5月25日). ““世界”の柔道へ -審判規定に無言の抗議をした醍醐の引退-”. 秘録日本柔道、102-105頁 (東京スポーツ新聞社) 
  14. ^ a b 三船久蔵 (2009年4月29日). “曾根康治が4度目の挑戦で念願の日本一”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、44-45頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟) 
  15. ^ a b c 醍醐敏郎 (1992年6月1日). “講道館創立百十周年記念九段昇段者および新九段のことば”. 機関誌「柔道」(1992年6月号)、42-44頁 (財団法人講道館) 
  16. ^ 竹園隆浩 (2006年3月7日). “十段 柔道、12万人に1人 22年ぶり3人”. 朝日新聞 (朝日新聞社) 
  17. ^ 「ミスター講道館」醍醐敏郎さん死去 柔道10段、95歳 - 朝日新聞デジタル 2021年10月10日
  18. ^ 『官報』第617号7頁 令和3年11月16日号


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