度重なる怪我と引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)
1955年は5月の全日本選手権大会を目前に警視庁での稽古中に右膝の靭帯を負傷し、本大会への出場を断念。 翌56年は5月に開催を控える世界選手権大会の代表選考となる4月の日本代表決定大会に出場するも、A組にエントリーした醍醐は決勝戦で夏井昇吉6段に敗れて記念すべき第1回世界選手権大会への出場は叶わなかった。醍醐は本来よく動いて自分のリズムに相手を引き込み試合を優位に進めるタイプだが、この夏井との試合は自分の動きが逆に夏井のリズムに転化されてしまったとの事で、醍醐は自身の対応の甘さに加え夏井の成長が印象的でもあったと語っている。 1957年は全日本選手権大会の予選となる東京都選手権大会にて、3回戦で早稲田大学学生の三宅倫三を相手に得意の大外刈を見舞って勝利するも、今度は軸足である左足の膝靭帯を負傷し、全日本本大会への出場は止むを得ず辞退した。 1958年5月には4年振りの全日本選手権大会出場を果たしたが、初戦で天理大学の古賀正躬5段と試合時間一杯を戦って、疑惑の判定に涙を飲んだ。同年11月の第2回世界柔道選手権大会代表決定戦に指定選手として選抜されていたが、大会直前になって体の故障を理由に出場を取り止め、醍醐は以降の大会に出場する事は無かった。しかし代表決定戦の頃に醍醐は大沢慶己と共に北海道へ柔道指導に赴いており、この稽古風景を目にした柔道評論家の工藤雷介は「特段どこを負傷しているというわけではなかった」と述べ、「春の全日本選手権大会の、どちらが勝ったかわからぬ試合を負けにされた現行の審判規定に対し、“無言の抵抗”というように受け取れた」と続けている。 正確な引退事由を本人は明かしていないが、醍醐はかねてより膝だけでなく右肘も痛めていて、腕が真っ直ぐ伸びずに湾曲するなど満身創痍の状態であった事は事実であり、醍醐自身は後に「多くの支援者・応援者に支えられて戦った」「この支えがあったからこそ、挫ける事無く戦い抜く事ができた、とても充実した選手時代であった」と語っている。なお、柔道評論家のくろだたけしは醍醐の現役時代を振り返り、「彼の技には強引さが無く、動きの中に自然に相手を崩し、掛けの力に集中するので、実に素晴らしい切れ味を持っていた」「木村政彦のような鋭い気迫は見られないが、柔道の大型選手として巧いのは、この人が最高」と絶賛していた。
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