度重なる失脚、復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 14:00 UTC 版)
1915年(民国4年)、梁士詒は袁世凱の皇帝即位のために請願活動を行った。しかし帝制が失敗し、翌年6月に袁世凱が死去すると、梁士詒は帝制運動の主犯として指名手配されてしまい、香港へ逃亡した。1918年(民国7年)2月に特赦されると、安徽派の政治家として復帰する。同年6月、交通銀行董事長兼国内公債局総理の地位に就いた。9月、安福国会の参議院院長をつとめる。1921年(民国10年)12月、奉天派の張作霖の支援を得て梁士詒は国務院総理に就任した。しかし翌年1月に、内閣は早くも倒れている。同年4月、第1次奉直戦争で奉天派が直隷派に敗北すると、梁士詒は日本に亡命した。 1925年(民国14年)2月、段祺瑞執政政府で、梁士詒は財政善後委員会委員長兼交通銀行総理として復帰する。1926年(民国15年)、張作霖に招聘されて政治研討会会長に就任し、翌民国16年(1927年)、税務処督弁となった。1928年(民国17年)、北京政府崩壊により梁士詒は国民政府から指名手配を受けたため、香港へ逃亡した。後に赦され、1932年(民国21年)、国難会議会員として招聘されている。 1933年(民国22年)4月9日に死去。享年65(満63歳)。
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