直隷派に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:48 UTC 版)
同年9月、徐樹錚は軍資金を流用していたために、張作霖により副司令職を罷免された。段祺瑞は徐を参戦処参謀長兼西北国防籌備処処長に任命した。徐は日本と交渉して、その資金・物資・技術援助を獲得し、「参戦軍」を編制して段の子飼いの部隊とした。11月、徐は陸軍上将位を授けられ、また、日本を訪れて段祺瑞への支持を取り付けている。1919年(民国8年)5月、五四運動が発生すると、徐は学生運動鎮圧とヴェルサイユ条約調印を主張した。しかし、これらの行為は、徐への国内世論の反発を招くことになる。 6月、参戦軍は辺防軍と改称され、西北籌辺使兼西北辺防軍総司令に任命された。さらに徐は外蒙善後督弁も兼任し、11月7日、辺防軍は外蒙古に進攻、フレー(庫倫、ウルガ)に入り、ボグド・ハーンの宮殿を武装兵士で包囲し、自治返上を迫った。これらに伴い1919年11月、中華民国大総統令によって外蒙古自治撤廃が公表された。翌年1920年(民国9年)元旦に、ウランバートル(庫倫)で外蒙古の活仏を冊封する典礼を執り行い、外蒙古の支配(中国語版、英語版)に乗り出したが、まもなくロマン・ウンゲルン率いるロシア白軍に駆逐された。同年夏、直隷派の曹錕、呉佩孚らが国内での反徐世論に乗じ、その罷免を総統徐世昌に求めた。結局7月、徐世昌は徐樹錚を罷免し、これをきっかけに安直戦争が勃発した。しかし、段祺瑞ら安徽派は敗北して徐樹錚は日本大使館に逃げ込み、安福倶楽部も解散された。
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