西北辺防軍
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1918年10月20日、徐樹錚は西北辺防籌備処を設置、新規部隊編成の準備を命じられた。奉天軍副司令も兼ねていた徐樹錚は、奉天軍参謀長の楊宇霆と奉軍補充旅3個旅、砲兵1個旅を抽出し河南省に集めて部隊の編成に取り掛かった。うち信陽駐屯の第1旅(長:王永泉)は12月より第24混成旅に改称し福建に移駐したため、指揮権を外れている。また、河南省の淮陽、商水、西華、上蔡、新鄭、舞陽、襄城、禹縣、沈邱、安徽省の渦陽、蒙城、太和、鳳台、壽、亳などに窓口を設置し新兵招募を行った。西北と名は関しているものの、前述の唐継尭、譚浩明の危惧の通り、南方政府征伐を当初の目的としていた。しかし、一連の編成は前述の奉天軍予算の参戦軍への流用と同様、張作霖に無許可で行われたため、激高した張作霖は徐樹錚を奉天軍副司令より解任した。1919年春頃には西北辺防軍第1混成旅が洛陽で編成され、同年に4個混成旅(のち1個混成旅追加)が正式に編成された。参戦軍同様、日本軍式の訓練と装備で、1個旅ごとに3連12門の野砲を保有していた。 6月13日、徐樹錚は西北籌辺使に任じられ、24日には兼任して西北辺防軍総司令に任じられた。背景として、大総統・徐世昌が徐樹錚を北京から引き離すべく任じたとも、段祺瑞が五四運動によって低下した安徽派の勢力挽回のため任じたともいわれる。しかし1920年(民国9年)7月4日、大総統・徐世昌は徐樹錚を更迭、西北辺防軍を陸軍省直轄にするとの決定を下した。この事が安直戦争への決定打となる。7月22日、洛陽に駐屯していた第1混成旅旅長・宋邦翰、第4混成旅旅長・張鼎勲は陸軍省の直轄として部隊存続を求めたが、呉佩孚は受け入れず、27日に武装解除を命じた。それに反発して兵乱の動きがあったため、30日、河南督軍・趙倜は王承斌と協力し両旅を包囲、呉佩孚も8月9日に直接洛陽に赴き、武装解除を指揮した。 第1混成旅 - 旅長:宋邦翰、洛陽駐屯(兗州とも) 第2混成旅 - 旅長:宋子揚、廊房駐屯(天津とも) 第3混成旅 - 旅長:褚其祥(中国語版)、宣化→庫倫駐屯 第4混成旅 - 旅長:張鼎勲、洛陽駐屯 第5混成旅 - 旅長:李如璋、1920年2月編成、南京駐屯
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