西北辺防軍とは? わかりやすく解説

西北辺防軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:08 UTC 版)

参戦軍」の記事における「西北辺防軍」の解説

1918年10月20日徐樹錚西北辺防籌備処を設置新規部隊編成準備命じられた。奉天副司令も兼ねていた徐樹錚は、奉天参謀長楊宇霆奉軍補充旅3個旅、砲兵1個旅を抽出し河南省集めて部隊の編成取り掛かった。うち信陽駐屯の第1旅(長:王永泉)は12月より第24混成旅に改称し福建移駐したため指揮権外れている。また、河南省淮陽商水西華上蔡新鄭舞陽襄城禹縣、沈邱、安徽省渦陽蒙城太和台、壽、亳などに窓口設置し新兵招募を行った西北と名は関しているものの、前述唐継尭譚浩明危惧通り南方政府征伐当初の目的としていた。しかし、一連の編成前述奉天予算参戦軍への流用と同様、張作霖無許可行われたため、激高した張作霖徐樹錚奉天副司令より解任した。1919年春頃には西北辺防軍第1混成旅が洛陽編成され同年に4個混成旅(のち1個混成追加)が正式に編成された。参戦軍同様、日本軍式の訓練装備で、1個旅ごとに3連12門の野砲保有していた。 6月13日徐樹錚西北籌辺使に任じられ24日には兼任して西北辺防軍総司令任じられた。背景として、大総統徐世昌徐樹錚北京から引き離すべく任じたとも、段祺瑞五四運動によって低下した安徽派勢力挽回のため任じたともいわれる。しかし1920年民国9年7月4日大総統徐世昌徐樹錚更迭、西北辺防軍を陸軍省直轄にするとの決定下した。この事が安直戦争への決定打となる。7月22日洛陽駐屯していた第1混成旅旅長・宋邦翰、第4混成旅旅長・張鼎勲は陸軍省直轄として部隊存続求めたが、呉佩孚受け入れず27日武装解除命じた。それに反発して兵乱動きがあったため、30日河南督軍趙倜王承斌協力し両旅を包囲呉佩孚8月9日直接洛陽に赴き、武装解除指揮した。 第1混成旅 - 旅長:宋邦翰、洛陽駐屯兗州とも) 第2混成旅 - 旅長:宋子揚、廊房駐屯天津とも) 第3混成旅 - 旅長:褚其祥(中国語版)、宣化庫倫駐屯 第4混成旅 - 旅長:張鼎勲、洛陽駐屯 第5混成旅 - 旅長:如璋、1920年2月編成南京駐屯

※この「西北辺防軍」の解説は、「参戦軍」の解説の一部です。
「西北辺防軍」を含む「参戦軍」の記事については、「参戦軍」の概要を参照ください。

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