王永泉
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王 永泉 | |
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『最新支那要人伝』(1941年)
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プロフィール | |
出生: | 1881年[注 1] |
死去: | 1940年(民国29年)8月30日[1][注 2]![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 王永泉 |
簡体字: | 王永泉 |
拼音: | Wáng Yŏngquán |
ラテン字: | Wang Yung-ch'uan |
和名表記: | おう えいせん |
発音転記: | ワン ヨンチュエン |
王 永泉(おう えいせん、1881年 - 1940年 〈民国29年〉 8月30日[1])は、清末・中華民国の軍人。北京政府では安徽派と目される。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に参加した。字は百川、伯川[1]。祖籍は江蘇省[2]。
事績
初期の活動
1902年(光緒28年)、日本に留学し、成城学校を経て陸軍士官学校第4期工兵科で学ぶ[4][5][注 4]。卒業して帰国後、湖北陸軍特別学校工兵教官。新建陸軍第8鎮参議に異動した李克果の後任で王永泉は工兵第8営管帯(大隊長)となる[6]。
工兵管帯としての王永泉は、(軽)汽球隊や橋梁隊といった兵種を創設したという[3]。前者については中国史上初の航空軍事組織とされており、当時の清朝が日本から購入した山田式気球2基の内1基が工兵第8営に配備され、王自らが新たに編成された気球隊の隊長となっている[7]。 武昌起義勃発時、王は永平秋操(軍事演習)に赴いており、督隊官の阮栄発に管帯代理を任せていたため難を逃れた[8]。また、この時の王は段祺瑞から演習での成果を賞賛され、後に安徽派に加わるきっかけとなった[3]。
中華民国成立後の1913年(民国2年)に北京政府で陸軍部技正、陸軍工兵上校を歴任する。1917年(民国6年)9月20日に湖南督軍公署参謀長(湖南督軍:傅良佐)を経て[9]、同年中に奉天陸軍司令部副官長兼補充旅旅長となった[2]。
福建における抗争
1918年(民国7年)1月29日、王永泉は第24混成旅旅長に任命され[9]、福建省に移駐する[4]。1921年(民国10年)4月1日、陸軍中将銜を加えられた[9]。1922年(民国11年)10月、王は安徽派の徐樹錚や南方政府の許崇智と結び、直隷派に接近した福建督軍李厚基[注 5]を省から駆逐する[3]。王は福建に軍政制置府を設立し、福建総撫兼省長を自称した。しかし王らによる福建省内の完全な統制はならず、まもなく制置府は廃止された[2]。同月7日には第24混成旅旅長の官職をいったん褫奪されたが[9]、まもなく同旅旅長に返り咲いたと見られる(年月日は不明)。
翌1923年(民国12年)3月20日、直隷派の孫伝芳が督理福建軍務善後事宜になると、王永泉は幇弁福建軍務善後事宜に任命され、福建省第2位の軍人としての地位を得た。4月23日、建安護軍使を兼ねたがまもなく廃止となり、5月21日、興泉護軍使を改めて兼ねている。8月23日、陸軍中将に任命され、陸軍上将銜を兼ねた。9月18日、溥威将軍に特任されている[9]。
翌1924年(民国13年)に入ると孫伝芳と王永泉の権力闘争が激化し、王は延平に拠って「福建独立」を宣言、孫に挑戦する。しかし同年3月には孫に敗北し、下野に追い込まれた[2][4][5]。これに伴い王は、福建省での地位も第24混成旅旅長の地位も全て喪失した[9]。その後しばらくは在野で逼塞することになる。
親日政権での動向
1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府が成立すると、王永泉はこれに参加する。翌1938年(民国27年)1月1日、王は治安部次長に任ぜられ、部長の斉燮元を補佐した[5][10]。1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同年4月11日、王永泉は国民政府中央の軍事委員会委員に任命され[11]、5月4日には華北政務委員会で治安総署署長代理(治安総署督弁:斉燮元)[注 6]を兼任となった[12][注 7][注 8]。
同年8月30日、王永泉は北京特別市で死去した。享年60[1]。9月10日、治安総署参事代理の杜錫鈞が後任の署長代理に昇進している。
注釈
- ^ 藤田編(1986)、12頁が「享年60」としていることから、数え年換算で「1881年生」とする。徐主編(2007)、85頁及び楊(1986)、106頁は「1880年生」としている。また、東亜問題調査会編(1941)、10頁及び尾崎監修(1940)、59頁によると「1876年生」。
- ^ 藤田編(1986)、12頁の原典は『南京新報』1940年9月5日。徐主編(2007)、85頁及び楊(1986)、106頁は「1942年没」としているが、誤りと見られる。
- ^ 楊(1986)、106頁によると「河北省青県馬廠」出身。
- ^ 徐主編(2007)、85頁は、「第3期工兵科」とする。
- ^ 李厚基も本来は安徽派である。
- ^ 華北政務委員会の総署では、督弁と署長とで正副の関係となる。臨時政府の部における総長と次長にあたる。
- ^ 公報上の任命は5月4日だが、華北政務委員会が成立した3月30日に事実上の重任となっていた可能性が高い。
- ^ 劉主編(1995)、1056頁によると、汪兆銘政権発足時に治安総署署長に就任した人物を杜錫鈞としているが、誤り。同日、杜は治安総署参事代理に任命されている。
出典
- ^ a b c d 藤田編(1986)、12頁。
- ^ a b c d e f 徐主編(2007)、85頁。
- ^ a b c d 楊(1986)、106頁。
- ^ a b c d 尾崎監修(1940)、59頁。
- ^ a b c d 東亜問題調査会(1941)、10頁。
- ^ 丘权政、杜春和 (1981). 辛亥革命史料选辑 上巻. 湖南人民出版社. p. 372
- ^ 馬(1991)、108-109頁。
- ^ 丘权政、杜春和 (1981). 辛亥革命史料选辑 上巻. 湖南人民出版社. p. 375
- ^ a b c d e f 中華民国政府官職資料庫「姓名:王永泉」※検索結果に同姓同名の別人も混入されている点に注意
- ^ 臨時政府令、民国27年1月1日(『政府公報』第1号、民国27年1月17日、臨時政府行政委員会公報処、15頁)。
- ^ 国民政府令、民国29年4月11日(『国民政府公報』第19号、民国29年5月13日、国民政府文官処印鋳局、1頁)。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第54号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会16頁)。
参考文献
- 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院、1986年。ISBN 9784762910463。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。 ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。
- 楊文愷「王永泉生平事迹点滴」中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編『天津文史資料選輯 第36輯』天津人民出版社、1986年。
- 馬毓福著、都筑実訳「中国草創期の軍事航空組織 陸軍気球隊」『航空情報』562号、1991年8月、106~109頁。
固有名詞の分類
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