西北王からの暗転とは? わかりやすく解説

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西北王からの暗転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 01:22 UTC 版)

胡宗南」の記事における「西北王からの暗転」の解説

その後1939年民国28年)に第34集団軍総司令1942年民国31年7月第8戦区副司長官兼第34集団軍総司令1945年民国34年7月第1戦区司令長官順調に昇進重ねている。これにより胡宗南は計40兵力擁することとなり、西安拠点中国西北部管轄していたことから「西北王」との異称でも呼ばれるようになった日中戦争の間には、共産党対す警戒怠らず陝甘寧辺区厳重に封鎖している。 日中戦争終結後は、蔣介石の命を受けて共産党討伐計画立案する1947年民国36年)春、胡宗南陝甘寧辺区向けて進攻開始した。しかし中国人民解放軍邀撃遭って苦戦し3月19日延安占領したものの、人民解放軍主力部隊はすでに同地引き払った後であった。その後も胡は人民解放軍討伐目論むが、解放軍主力捕捉できず、それどころ自軍分散され挙句各個撃破されてしまう。翌年春からは人民解放軍大規模な反転攻勢開始し4月22日延安奪回されてしまった。 以後胡宗南人民解放軍相手防戦一方追い込まれてしまう。1949年民国38年5月20日、ついに西安からの撤退余儀なくされた。その後敗戦重ねて四川省逃れ成都拠る蔣介石の命により中国西南部維持取り組む。しかし12月9日までに、雲南省政府主席盧漢四川省劉文輝らが共産党側へ寝返ったため、蔣は、息子経国とともに成都から飛行機台湾へ撤退する。胡も23日にいったん海南島逃亡したが、蔣の厳命を受け、西昌人民解放軍への抵抗続けた。しかし1950年民国39年3月西昌失陥迫ったため、胡は台湾へ最終的に逃走している。

※この「西北王からの暗転」の解説は、「胡宗南」の解説の一部です。
「西北王からの暗転」を含む「胡宗南」の記事については、「胡宗南」の概要を参照ください。

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