西北工作とその後
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同年の日中戦争(抗日戦争)勃発後、谷正鼎は西北地域の工作を担当することになる。西安陸軍軍官学校分校の創設を進め、その後、軍事委員会天水行営政治部主任兼国民党特別党部書記長、陝西省党部主任委員などを歴任した。1944年(民国34年)6月、国民党中央組織部副部長に任命され、翌年、第6期中央執行委員に引き続き選出されている。 戦後、谷正鼎は中央党政軍聯席会議で秘書長に任ぜられた。翌年10月、行政院綏靖区政務委員会委員となり、11月、制憲国民大会代表に選出される。1947年(民国36年)9月、党中央組織部部長に昇進した。国共内戦末期に台湾へ逃れる。以後、第8期から第10期まで党中央評議委員を務めたものの、兄の谷正綱とは対照的に、党でも政府でも要職を得ることは無かった。 1974年(民国63年)11月1日、台北市にて病没。享年72(満71歳)。
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