西北統治と日中戦争での大敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:44 UTC 版)
「蔣鼎文」の記事における「西北統治と日中戦争での大敗」の解説
1936年(民国25年)、蔣鼎文は西北剿匪前敵総司令に任ぜられ、長征により延安に根拠を置いた共産党に備えることになる。同年12月の西安事件では、蔣介石と共に蔣鼎文も張学良らに一時拘禁された。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)10月、蔣鼎文は第4集団軍総司令に任ぜられ、翌月、軍事委員会委員長西安行営主任を兼任した。翌年6月、陝西省政府主席兼保安司令にも任ぜられている。1939年(民国28年)2月、第10戦区司令長官となった。 1941年(民国30年)12月、蔣鼎文は第1戦区司令長官兼冀察戦区総司令に任命され、対日戦の前線指揮をとることになる。1943年(民国32年)6月には、第24集団軍総司令も兼任した。しかし翌1944年(民国33年)春、大陸打通作戦を開始した日本軍の迎撃に失敗、壊滅的損害を被ったため、7月に蔣は引責辞任に追い込まれている。その後、軍事参議院参議の閑職に回されたが、1945年(民国34年)5月には党第6期中央執行委員に再選された。
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