郭松齢討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:33 UTC 版)
第1次奉直戦争に奉天派が直隷派に敗北した後の1922年(民国11年)6月8日、東三省議会が張作霖を東三省保安総司令に推挙し、呉俊陞と孫烈臣は副司令となった。奉天派の軍事改革に、呉も黒竜江軍事訓練処督弁として参加している。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争では、呉は第5軍軍長に任命され、奉天派の後方を固めた。 1925年(民国14年)10月、呉俊陞は張作霖の命により、馮玉祥の後背を脅かすために多倫・張家口方面へ出撃した。しかし11月20日に、郭松齢が馮と結んで兵変を起こす。12月23日、呉は巨流河で郭を撃破し、これを捕えて処刑した。この時、呉と楊宇霆は反乱軍の将兵を徹底的に粛清するよう主張したが、張作相・韓麟春は反対して寛大な処置を求めている。結局、張作霖は後者の意見に従った。
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