講道館10段に列せらるとは? わかりやすく解説

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講道館10段に列せらる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)

醍醐敏郎」の記事における「講道館10段に列せらる」の解説

講道館での昇段段位年月日年齢入門1940年2月15日 14歳 初段1941年1月12日 15歳 2段1942年2月25日 16歳 3段1942年9月2日 16歳 4段1943年5月16日 17歳 5段1944年10月29日 18歳 6段1949年1月17日 23歳 7段1956年6月20日 30歳 8段1969年4月29日 439段1992年4月28日 6610段2006年1月8日 80柔道国際的発展に伴い講道館国際交流基金からの指導者派遣要請を受けると、醍醐責任者としてその人選に当たった。年単位長期派遣であったため難航極めたが、警視庁直談判して同意取り付けセネガルなど柔道後進国継続的に指導者派遣する事に成功立場上、醍醐自身も暇を見て現地に赴き、派遣前の事前調査派遣後指導員生活環境指導内容視察を行うなど、精力的に海外飛び回った醍醐が後に「世界中友人知人ができ、今でも交流続いている」「世界のどこへ行って知っている人がいるから楽しい」と語る根源には、このような地道な草の根活動があった。 1985年7月には警察大学校術科教養部長に昇進し、翌86年定年退官後引き続き非常勤講師として20年以上指導行って計約40年長期渡り警察官育成汗を流した併せて86年4月には講道館道場指導部長も拝命している。これらの功績から1992年には講道館評議員となり、また講道館創立110周年に際して醍醐9段位に列せられた。昇段際しこの度昇段機に日本伝来文化である講道館柔道のため、今まで上の努力最善を尽す覚悟」と意気込み述べていた。 人生柔の道捧げた醍醐は、前述通り講道館警視庁、あるいは全日本代表の舞台軸足置いて選手育成腐心する一方で斯の道の振興のため多く著書残している。1970年大修館書店より発刊された『柔道教室』は現在まで50回近い再版重ね中国語海賊版まで出回る始末に。また『柔道 投技上・中・下)』は日本語のみならず英語・ドイツ語フランス語にも翻訳される程に世界中柔道愛好家達から支持受けた温厚篤実何の衒いも無い人柄柔道界に対す永年尽力功績認められ醍醐は、2006年1月8日講道館鏡開き式において、同じく柔道発展寄与した安部一郎大沢慶己と共に事実上の最高段位である10段昇段。3人での同時昇段史上初めての事であった1991年小谷澄之没して以来15年振り10段誕生で、120年上の歴史177万人超える有段者いずれも当時)を抱え講道館でも10段受けたのは僅か15人、実に12万人1人という狭き門であった醍醐1998年頃より開始した醍醐個人研修会口伝会」にて、同志と共に柔道形古式の形)の研究研鑚勤しんでいた。また、長野県松本市1997年より始まった自身の名を冠す少年柔道大会醍醐敏郎全国少年柔道錬成大会』を通じ青少年育成全面的にバックアップしていた。 2021年10月10日誤嚥性肺炎のため、東京都内病院死去95歳没。死没をもって従七位叙される。

※この「講道館10段に列せらる」の解説は、「醍醐敏郎」の解説の一部です。
「講道館10段に列せらる」を含む「醍醐敏郎」の記事については、「醍醐敏郎」の概要を参照ください。

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