講道館10段に列せらる
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講道館での昇段歴段位年月日年齢入門1940年2月15日 14歳 初段1941年1月12日 15歳 2段1942年2月25日 16歳 3段1942年9月2日 16歳 4段1943年5月16日 17歳 5段1944年10月29日 18歳 6段1949年1月17日 23歳 7段1956年6月20日 30歳 8段1969年4月29日 43歳 9段1992年4月28日 66歳 10段2006年1月8日 80歳 柔道の国際的発展に伴い講道館が国際交流基金からの指導者派遣要請を受けると、醍醐は責任者としてその人選に当たった。年単位の長期派遣であったため難航を極めたが、警視庁に直談判して同意を取り付け、セネガルなど柔道後進国に継続的に指導者を派遣する事に成功。立場上、醍醐自身も暇を見ては現地に赴き、派遣前の事前調査や派遣後の指導員の生活環境・指導内容の視察を行うなど、精力的に海外を飛び回った。醍醐が後に「世界中に友人・知人ができ、今でも交流が続いている」「世界のどこへ行っても知っている人がいるから楽しい」と語る根源には、このような地道な草の根活動があった。 1985年7月には警察大学校の術科教養部長に昇進し、翌86年の定年退官後も引き続き非常勤講師として20年以上指導を行って、計約40年の長期に渡り警察官の育成に汗を流した。併せて86年4月には講道館の道場指導部長も拝命している。これらの功績から1992年には講道館評議員となり、また講道館創立110周年に際して醍醐は9段位に列せられた。昇段に際し「この度の昇段を機に、日本伝来文化である講道館柔道のため、今まで以上の努力と最善を尽す覚悟」と意気込みを述べていた。 人生を柔の道に捧げた醍醐は、前述の通り講道館や警視庁、あるいは全日本代表の舞台に軸足を置いて選手育成に腐心する一方で、斯の道の振興のため多くの著書も残している。1970年に大修館書店より発刊された『柔道教室』は現在まで50回近い再版を重ね、中国語の海賊版まで出回る始末に。また『柔道 投技(上・中・下)』は日本語のみならず英語・ドイツ語・フランス語にも翻訳される程に、世界中の柔道愛好家達から支持を受けた。 温厚篤実で何の衒いも無い人柄と柔道界に対する永年の尽力・功績が認められた醍醐は、2006年1月8日講道館鏡開き式において、同じく柔道の発展に寄与した安部一郎、大沢慶己と共に事実上の最高段位である10段に昇段。3人での同時昇段は史上初めての事であった。1991年に小谷澄之が没して以来15年振りの10段誕生で、120年以上の歴史と177万人を超える有段者(いずれも当時)を抱える講道館でも10段を受けたのは僅か15人、実に12万人に1人という狭き門であった。 醍醐は1998年頃より開始した醍醐の個人研修会「口伝会」にて、同志らと共に柔道形(古式の形)の研究と研鑚に勤しんでいた。また、長野県松本市で1997年より始まった、自身の名を冠す少年柔道大会『醍醐敏郎杯全国少年柔道錬成大会』を通じ、青少年の育成を全面的にバックアップしていた。 2021年10月10日、誤嚥性肺炎のため、東京都内の病院で死去。95歳没。死没日をもって従七位に叙される。
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