講道館10段位を允許とは? わかりやすく解説

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講道館10段位を允許

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:34 UTC 版)

小谷澄之」の記事における「講道館10段位を允許」の解説

講道館での昇段段位年月日年齢入門1921年11月23日 18歳 初段1922年1月8日 18歳 2段1923年10月1日 20歳 3段1924年7月19日 20歳 4段1924年12月23日 21歳 5段1927年10月31日 24歳 6段1932年7月20日 28歳 7段1937年12月22日 34歳 8段1945年5月4日 41歳 9段1962年11月17日 59歳 10段1984年4月27日 80講道館では道場最高顧問評議員全日本柔道連盟においては1950年幹事として着任してから永く柔道界の運営携わり1988年法人化際し連盟退任する際には副会長となっていた。全国高等学校体育連盟柔道部創設され時には、「全日本柔道連盟全国高等学校体育連盟立ち入るような事はしない頼まれた事には協力する」と語りその後40年以上一貫してこれを有言実行したという。一方でこの頃、本来の柔道点取り主義勝ち負け拘る競技柔道傾倒していった当時の状況心から慨嘆し、正し柔道への原点回帰を願う小谷がその想い周囲の人間に語る時だけは、普段温厚物静かなその表情紅潮させていた。 1962年11月9段昇段し赤帯許され1972年11月には講道館創立90周年功労賞受賞1974年秋の叙勲では勲四等瑞宝章瑞宝章授与されている。1984年4月27日講道館百周年記念式において事実上柔道高段位である10段位を允許空位となっていた10段位が埋まるのは、栗原民雄1979年10月没して以来4年振り実質的な存命者での10段位は三船久蔵1965年1月没して以来20年振りの事であった昇段際し小谷は、「図らずも10段授与されたが、(嘉納師範地下でどう思っておられるか」と謙遜する同時に、「先生!努力精進だけはする覚悟ですから、宜しご指導の程お願い致します」と続けている。 10段になってもなお柔道衣を着て講道館道場毎日汗を流す傍ら自身生涯描いた自伝柔道一路 -海外普及つくした五十年-』を出版する等した。1987年12月には自身夫人の健康を考えて郷里兵庫県西宮市転居転居2日前に突然嘉納行光講道館長の元を訪れ長い間お世話になったけれど、明後日転居します」と述べ送別の宴を開催する暇も無く慌ただしく東京去っていったが、以後晴耕雨読悠々自適の生活を送っていたという。1991年の夏頃より体調崩し嘉納館長見舞い訪れた際には会話する事ができなかった。同年10月肺炎のため死去享年89小谷柔道界に対す多大な貢献から講道館を以て送られる事となり、11月15日講道館大道場厳かに執り行われた。会場には各都道府県柔道連盟会長および9段各位原文兵衛参議院議員らが駆け付けた嘉納行光館長のほか、全日本柔道連盟代表して南嶋清久9段、全講道館員を代表して細川9段弔辞述べ塩川正十郎自治相弔電読み上げられている。翌92年講道館殿堂入り

※この「講道館10段位を允許」の解説は、「小谷澄之」の解説の一部です。
「講道館10段位を允許」を含む「小谷澄之」の記事については、「小谷澄之」の概要を参照ください。

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