講道館10段位を允許
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講道館での昇段歴段位年月日年齢入門1921年11月23日 18歳 初段1922年1月8日 18歳 2段1923年10月1日 20歳 3段1924年7月19日 20歳 4段1924年12月23日 21歳 5段1927年10月31日 24歳 6段1932年7月20日 28歳 7段1937年12月22日 34歳 8段1945年5月4日 41歳 9段1962年11月17日 59歳 10段1984年4月27日 80歳 講道館では道場最高顧問や評議員、全日本柔道連盟においては1950年に幹事として着任してから永く柔道界の運営に携わり、1988年の法人化に際し同連盟を退任する際には副会長となっていた。全国高等学校体育連盟に柔道部が創設された時には、「全日本柔道連盟は全国高等学校体育連盟に立ち入るような事はしない。頼まれた事には協力する」と語り、その後40年以上一貫してこれを有言実行したという。一方でこの頃、本来の柔道が点取り主義の勝ち負けに拘る競技柔道に傾倒していった当時の状況を心から慨嘆し、正しい柔道への原点回帰を願う小谷がその想いを周囲の人間に語る時だけは、普段温厚で物静かなその表情を紅潮させていた。 1962年11月に9段に昇段して赤帯を許され、1972年11月には講道館創立90周年功労賞を受賞。1974年秋の叙勲では勲四等瑞宝章瑞宝章も授与されている。1984年4月27日の講道館百周年記念式において事実上の柔道最高段位である10段位を允許。空位となっていた10段位が埋まるのは、栗原民雄が1979年10月に没して以来約4年半振り、実質的な存命者での10段位は三船久蔵が1965年1月に没して以来約20年振りの事であった。昇段に際し小谷は、「図らずも10段を授与されたが、(嘉納)師範は地下でどう思っておられるか」と謙遜すると同時に、「先生!努力精進だけはする覚悟ですから、宜しくご指導の程お願い致します」と続けている。 10段になってもなお柔道衣を着て講道館道場で毎日汗を流す傍ら、自身の生涯を描いた自伝『柔道一路 -海外普及につくした五十年-』を出版する等した。1987年12月には自身や夫人の健康を考えて郷里・兵庫県の西宮市に転居。転居2日前に突然嘉納行光講道館長の元を訪れ「長い間お世話になったけれど、明後日転居します」と述べ、送別の宴を開催する暇も無く慌ただしく東京を去っていったが、以後は晴耕雨読で悠々自適の生活を送っていたという。1991年の夏頃より体調を崩し、嘉納館長が見舞いに訪れた際には会話する事ができなかった。同年10月、肺炎のため死去。享年89。小谷の柔道界に対する多大な貢献から講道館葬を以て送られる事となり、11月15日に講道館大道場で厳かに執り行われた。会場には各都道府県柔道連盟会長および9段各位、原文兵衛参議院議員らが駆け付けた。嘉納行光館長のほか、全日本柔道連盟を代表して南嶋清久9段、全講道館員を代表して細川熊蔵9段が弔辞を述べ、塩川正十郎自治相の弔電が読み上げられている。翌92年、講道館殿堂入り。
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