講道館柔道と起倒流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:58 UTC 版)
飯久保恒年の門人に講道館柔道を開いた嘉納治五郎がいる。 嘉納治五郎は天神真楊流を修行していたが1881年(明治14年)に師が亡くなったことにより、新しい師をいかにして探すか苦心していた。 東京大学の学友に本山正久という人がおり、東京大学法学部第一回の卒業生で嘉納より先輩であったが野球を一緒にやった関係で懇意にしていた。この人の父親である本山正翁は、幕末に講武所で起倒流教授方を勤めていた。嘉納は天神真楊流と流派が違うが教えを乞うたが習うことができなかった。本山は形の名人で乱取は得意ではなかったため、自分が盛んな時によく出来る先生と思っていた人がいるからと講武所の教授方であった飯久保恒年を嘉納に紹介した。 それから飯久保恒年に就いて始めて起倒流を習うことになった。天神真楊流では咽喉を締め、逆を取り、押し伏せるなどを主としており投技も巴投、足払、腰投をやったが、起倒流は掛け方に違いがあった。 飯久保は当時50歳以上であったが乱捕も相当に出来たので嘉納は熱心に稽古を行った。最初はなかなか及ばなかったが、起倒流の形は天神真楊流とは主眼とする所が異なっており新しい研究に没頭し真剣に技を練ったとされる。 1882年2月(明治15年)、嘉納は下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の書院と付属屋を借りて移り住んだ。1882年5月(明治15年)に講道館を設立した。講道館設立後も飯久保恒年に来てもらい起倒流形と乱捕の稽古をした。この時の書生には講道館四天王の富田常次郎、西郷四郎がいた。 飯久保から1883年(明治16年)に免許を得て、飯久保が持っていた起倒流の伝書を全て譲り受けた。飯久保からの指導は明治18~19年頃まで続いた。 1888年4月5日(明治21年)飯久保恒年は病気のため55歳で亡くなった。
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