講道館研修員としてとは? わかりやすく解説

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講道館研修員として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)

醍醐敏郎」の記事における「講道館研修員として」の解説

教育職員免許状受けて1947年3月東京高等師範学校卒業すると、体育教師肩書三重県県立宇治山田商業高校赴任。ここで学校授業のほか町の有志と共に汗を流し週末には近鉄線乗り継いで京都武徳殿大阪ニュージャパン柔道協会まで赴いて稽古励んだ1948年3月には全関西対全九州争われる第2回新生柔道大会関西選手1人として選抜され個人戦では初戦戦前柔道王・木村政彦相対し大金星とはいかなかったものの力一杯挑戦した事が後々まで思い出として残っているという。 その後三重県警察より柔道教師誘いを受け、これを嘗(かつ)ての恩師大滝忠夫8段に相談すると、大滝回答は「職を用意してやるから東京へ帰ってこい」というものだった前に増して柔道への熱意強くなっていた醍醐大滝善意有難く受け入れ1949年4月に“研修員”という肩書講道館復帰した主な仕事雑誌編集講道館道場での指導だったが、当時講道館には各大学から腕自慢学生達が通い詰め同じく研修となった大沢慶己と共に学生相手稽古時間の2時間は殆ど休む暇が無い程の荒稽古こなした師範として三船久蔵佐村嘉一郎飯塚国三郎中野正三小田常胤錚々たる顔触れがあったが、既に高齢であったので、稽古若者達に胸を貸すのは専ら醍醐大沢役目であったという。毎日午前中警視庁へ顔を出し午後講道館へと通う生活を続け1950年には警視庁入り打診されたが、講道館軸足置いて活動したい意向持っていた事から醍醐はこれを固辞している。なお、この頃醍醐戦後の混乱期という状況下で住む家も無く講道館地下にある更衣室寝床にし木製ロッカーひっくり返して布団敷いて寝るという生活で、食事も粥のみという苦難の時代でもあった。 身長179cm・体重109kgと堂々たる体格ながら巧さも兼ね備え大外刈内股小内刈体落等に長じた醍醐1949年1月に6段に昇段し同年5月第2回全日本選手権大会東京代表として初出場すると、2回戦勝ち抜いて3位入賞果たした同年10月第3回全日本東西対抗大会東軍副将抜擢され2人抜いて3人目引き分ける活躍見せた公開競技として開催された続く11月第4回国民体育大会(3人制団体戦)では東京代表の一員として出場東京代表チーム圧倒的な強さ立て続け相手チームを屠り、大将として貢献した醍醐もまた「醍醐強し」との名声全国広めた

※この「講道館研修員として」の解説は、「醍醐敏郎」の解説の一部です。
「講道館研修員として」を含む「醍醐敏郎」の記事については、「醍醐敏郎」の概要を参照ください。

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