講道館研修員として
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教育職員免許状を受けて1947年3月に東京高等師範学校を卒業すると、体育教師の肩書で三重県の県立宇治山田商業高校へ赴任。ここで学校授業のほか町の有志らと共に汗を流し、週末には近鉄線を乗り継いで京都の武徳殿や大阪のニュージャパン柔道協会まで赴いて稽古に励んだ。1948年3月には全関西対全九州で争われる第2回新生柔道大会に関西軍選手の1人として選抜され、個人戦では初戦で戦前の柔道王・木村政彦と相対し、大金星とはいかなかったものの力一杯挑戦した事が後々まで思い出として残っているという。 その後三重県警察より柔道教師の誘いを受け、これを嘗(かつ)ての恩師・大滝忠夫8段に相談すると、大滝の回答は「職を用意してやるから東京へ帰ってこい」というものだった。前にも増して柔道への熱意が強くなっていた醍醐は大滝の善意を有難く受け入れ、1949年4月に“研修員”という肩書で講道館へ復帰した。主な仕事は雑誌の編集と講道館道場での指導だったが、当時の講道館には各大学から腕自慢の学生達が通い詰め、同じく研修員となった大沢慶己と共に、学生を相手に稽古時間の2時間は殆ど休む暇が無い程の荒稽古をこなした。師範としては三船久蔵や佐村嘉一郎、飯塚国三郎、中野正三、小田常胤ら錚々たる顔触れがあったが、既に高齢であったので、稽古で若者達に胸を貸すのは専ら醍醐と大沢の役目であったという。毎日午前中は警視庁へ顔を出し午後は講道館へと通う生活を続け、1950年には警視庁入りを打診されたが、講道館に軸足を置いて活動したい意向を持っていた事から醍醐はこれを固辞している。なお、この頃の醍醐は戦後の混乱期という状況下で住む家も無く、講道館の地下にある更衣室に寝床にし木製のロッカーをひっくり返して布団を敷いて寝るという生活で、食事も粥のみという苦難の時代でもあった。 身長179cm・体重109kgと堂々たる体格ながら巧さも兼ね備え大外刈・内股・小内刈・体落等に長じた醍醐は1949年1月に6段に昇段し、同年5月の第2回全日本選手権大会に東京代表として初出場すると、2回戦を勝ち抜いて3位入賞を果たした。同年10月の第3回全日本東西対抗大会は東軍副将に抜擢され、2人を抜いて3人目と引き分ける活躍を見せた。公開競技として開催された続く11月の第4回国民体育大会(3人制団体戦)では東京代表の一員として出場、東京代表チームは圧倒的な強さで立て続けに相手チームを屠り、大将として貢献した醍醐もまた「醍醐強し」との名声を全国に広めた。
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