全日本東西対抗大会
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1949年10月29日(於:大阪国技館) - 1940年以来9年振り開催となった第3回東西対抗大会は東軍西軍それぞれ27名ずつの抜き試合形式で行われ、醍醐はこれに東軍の副将として出場。試合は序盤から、東軍の金子泰興4段が3人を抜けば、すぐに西軍の吉田広一5段が3人を抜き返し、西軍が橋元親7段の活躍で抜き出たが、逆に東軍は醍醐の盟友・大沢慶己5段が抜き返すという一進一退の攻防で進んだ。その後西軍は岡本信晴6段の3人抜きや奥田五蔵6段の2人抜きで大きくリードし、東軍は宮内英二6段の2人抜きで挽回するも5人ビハインドという状況で醍醐に出番が回ってきた。醍醐は武専出身の西軍七将・宮川善一6段と六将・中村常男6段をそれぞれ大外刈に沈めるも、3人目の細川九州男6段と引き分け、続く東軍大将の羽鳥輝久6段が西軍三将・松本安市6段の得意とする大外刈に敗れて、西軍に副将・広瀬巌7段と大将・伊藤徳治7段を残しての悠々の勝利を譲った。 1951年9月23日(於:名古屋市金山体育館) - 第4回大会は出場選手数を前大会から2人減らし両軍25名ずつで行われ、同年5月に既に全日本王者となっていた醍醐はこれに東軍大将で出場。東軍は夏井昇吉5段や伊藤信夫5段、藤森徳衛6段がそれぞれ2人を抜けば、西軍は広川彰恩5段が2人を抜く活躍を見せたほか宮川善一6段、山本博6段、中村常男6段が小まめに抜き返すなど、両軍とも互いに実力伯仲。西軍1人リードのまま醍醐は西軍副将の松本安市7段と相対した。この試合は互いに奮戦するも試合時間一杯をに戦って優劣付かず、東軍は西軍に大将・広瀬巌7段を残して敗れ、戦前の第1回大会から4連敗となった。 1952年8月17日(於:秋田市八橋球場特設会場) - 何とか一矢報いようと奮起する東軍は大将に石川隆彦7段を据えて、副将・羽鳥輝久6段、三将・醍醐という布陣で第5回大会に臨んだ。試合内容は、東軍選手が1人を抜けば西軍選手が1人を抜き返すという一進一退の熱戦で、東軍九将の夏井昇吉5段が2人抜いて(棄権勝を含む)均衡が崩れた。東軍四将の伊藤秀雄が西軍四将で同年全日本王者の吉松義彦7段を優勢に降す金星を上げて、更に三将の松本安市7段と引き分ける活躍を見せれば、続いて出場の醍醐は西軍副将・広瀬巌7段を跳腰返、大将・伊藤徳治7段を釣込足で一閃し、東軍は2人残しの快勝というオマケ付きで終に初勝利を手にした。 1953年9月27日(於:福岡市平和台野球場特設会場) - 自身4度目の出場となる全日本東西対抗大会に醍醐は東軍三将として選抜されるも、前年の雪辱を誓う西軍は河野宗達4段や明治大学出身の曽根康治5段の活躍が目覚ましく、試合は終始西軍優位で進んだ。醍醐は、小兵の大沢慶己6段と朝飛速夫6段を立て続けに破って優秀選手賞を獲得した西軍十一将の河野宗円6段と相対するとこれを大外刈に沈め、続く山肩敏美6段を払釣込足に破り、九将・高浜正之6段と引き分けた。その後東軍は副将の伊藤秀雄6段が湊庄市6段ら3人を抜く挽回を見せるも及ばず、西軍に3人残しの大勝を譲った。 1954年10月3日(於:名古屋市金山体育館) - 全日本王者として臨む第7回大会に醍醐は東軍三将として出場。試合は西軍5人目・山舗公義5段の2人抜きや同9人目・広川彰恩5段の3人抜きもあって、西軍がリードしたまま終盤まで進んだ。東軍は台頭目覚ましい九将・夏井昇吉5段の3人抜き等で善戦するも、醍醐に出番が回ってきた時には3人ビハインドの状況であった。醍醐は西軍六将・戸高清光6段を珍しく寝技(横四方固)で破るも、続く試合巧者の橋元親6段を捉え切れずに引分で試合を終えた。その後東軍は副将・羽鳥輝久7段と大将・石川隆彦7段がそれぞれ引き分けて、大会は西軍が2人残しで勝利した。 1955年10月2日(於:宮城球場特設会場) - 仙台市で開催された第8回大会は序盤から引分が続き、19試合を戦った時点で勝敗を決したのは僅か2試合(東西両軍とも1勝ずつ)という有様であった。20試合目で西軍七将の石橋弥一郎6段が優勢で1人を抜くも、すぐに東軍六将・朝飛速夫6段が優勢でこれを抜き返し、試合は再び均衡に。しかし終盤戦は西軍が優勢で、守山洋6段と橋本親6段の所でリードを奪うと、東軍大将の醍醐は西軍三将の中村常男6段の重い腰を浮かせる事は適わず引き分けて、前年と同様に西軍は副将の吉松義彦7段と大将の松本安市7段を残しての勝利となった。 1956年9月30日(於:大阪府立体育会館) - 節目の30歳となった醍醐は、第9回大会には東軍大将として選抜された。東軍は中央大学の渡辺喜三郎4段や明治大学の神永昭夫4段、日本大学の松下三郎4段ら学生陣が活躍し、一方の西軍も天理大学の古賀正躬4段のほか石田洋三4段、小田雄三ら若手が奮戦した。同年の第1回世界選手権大会を制し世界王者になった東軍副将・夏井昇吉6段が西軍三将で33歳のベテラン橋元親6段に敗れる波乱もあり、続く大将の醍醐も橋元と引き分け、西軍に副将・吉松義彦7段と大将・中村常男7段の2人を残しての勝利を譲った。 1957年9月30日(於:福岡スポーツセンター) - 最後の出場となった第10回大会で醍醐は3大会連続の東軍大将に抜擢され、副将・大沢慶己6段、大将・醍醐という布陣で臨んだ。試合内容としては引き分けが多く、西軍十九将の河野雅英4段と東軍十五将の渡辺喜三郎4段がそれぞれ2人を抜いて3人目で引き分けた以外は互いに目を見張る活躍は無かった。醍醐と吉松義彦7段との大将決選を含め、六将から大将までの6試合がいずれも引き分ける形となり、大会史上初めて東西優劣無く引き分けという結果に終わった。なお、ルール変更に伴い第11回大会以降は点取り試合に改められたため、この大会以って抜き試合は最後となった(その後、1963年の第15回大会で復活)。
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全日本東西対抗大会
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1949年10月29日(於:大阪国技館) - 戦後初めての大会となった第3回大会は東軍西軍それぞれ27名ずつの抜き試合形式で行われ、大沢は東軍の十四将として出場した。試合は序盤から、東軍の金子泰興四段が3人を抜けば、すぐに西軍の吉田広一五段が3人を抜き返すという一進一退の攻防であったが、橋元親七段の活躍等で抜き出た西軍が試合を優位に進めたまま大沢に出番が回ってきた。ここで大沢は竹下忠次六段を優勢に破り、丸山淳一五段を内股透で転がし、3人目の朝飛速夫六段とは引き分けて、東軍の1人ビハインドまで持ち直した。しかし、その後は西軍・岡本信晴六段の3人抜きで大きくリードを許し、東軍は宮内英二六段や副将を務めた大沢の盟友・醍醐敏郎六段の2人抜きで一矢報いるも、最後は大将の羽鳥輝久六段が松本安市六段の大外刈に敗れ、西軍は副将・広瀬巌七段と大将・伊藤徳治七段が不戦で悠々の勝利を手にした。 1951年9月23日(於:名古屋市金山体育館) - 第4回大会は出場選手数を前大会から2人減らし両軍25名ずつで行われ、大沢はこれに東軍十三将で出場。東軍は夏井昇吉五段や伊藤信夫五段が、西軍は広川彰恩五段が各々2人を抜く活躍を見せ、大沢は西原基之六段との十三将同士の戦いになった。ここで大沢は西原を体落で破り、続く2人目に激突したのは前大会で大活躍した岡本信晴六段であったが、首尾よくこれと引き分けて東軍にリードをもたらした。試合はその後、東軍の藤森徳衛六段が2人を抜く活躍を見せたが、一方で西軍の宮川善一六段、山本博六段、中村常男六段が小まめに抜き返し、最後は東軍大将の醍醐敏郎六段が西軍副将の松本安市七段と引き分け、東軍は西軍に大将・広瀬巌七段を残して、またしても敗れる結果となった。 1952年8月17日(於:秋田市八橋球場特設会場) - 格上げの東軍八将で出場した第5回大会は、東軍選手が1人を抜けば西軍選手が1人を抜き返すという試合内容で、大沢の前に出場した東軍九将の夏井昇吉五段が2人抜いて(棄権勝を含む)均衡が崩れ、更に大沢が夏井を破った伊勢茂一六段を相手に優勢勝を収め、次いで岡本信晴六段とは引き分けた。試合はその後も抜きつ抜かれつを繰り返し、最後は東軍大将で前年全日本王者の醍醐敏郎六段が西軍の副将・広瀬巌七段、大将・伊藤徳治七段を立て続けに破って気を吐き、東軍は石川隆彦七段と羽鳥輝久七段を残して勝利。全日本東西対抗大会5回目にして、初めて東軍の頭上に栄冠が飾られた。 1953年9月27日(於:福岡市平和台野球場特設会場) - 4度目の出場となる大沢は東軍五将としてこれに臨んだが、雪辱を誓う西軍は河野宗達四段や明治大学で鳴らした曽根康治五段の活躍が目覚ましく、試合は終始西軍優位で進んだ。西軍十一将の河野宗円六段が大沢を払腰に、続く朝飛速夫六段を小外掛に抜く快進撃を見せて優秀選手賞を獲得、東軍は三将の醍醐六段が2人を、副将の伊藤秀雄が3人を抜く挽回を見せるも及ばず、西軍に3人残しの大勝を譲った。 1957年9月30日(於:福岡スポーツセンター) - 大沢自身4大会振りの出場となった第10回大会では東軍副将に抜擢され、副将・大沢、大将・醍醐という布陣で臨んだ。試合内容としては引き分けが多く、西軍十九将の河野雅英四段と東軍十五将の渡辺喜三郎四段がそれぞれ2人を抜いて3人目で引き分けた以外は目を見張るような活躍は無かった。大沢と中村常男六段との副将同士の試合を含め、六将から大将までの6試合がいずれも引き分ける形となり、大会史上初めて東西優劣無く引き分けという結果に終わった。
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