全日本東西対抗大会とは? わかりやすく解説

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全日本東西対抗大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)

醍醐敏郎」の記事における「全日本東西対抗大会」の解説

1949年10月29日(於:大阪国技館) - 1940年以来9年振り開催となった第3回東西対抗大会東軍西軍それぞれ27名ずつの抜き試合形式行われ醍醐はこれに東軍副将として出場試合序盤から、東軍金子泰興4段が3人を抜けば、すぐに西軍吉田広一5段が3人を抜き返し西軍橋元親7段の活躍抜き出たが、逆に東軍醍醐盟友大沢慶己5段が抜き返すという一進一退の攻防進んだその後西軍岡本信晴6段の3人抜き奥田五蔵6段の2人抜きで大きくリードし東軍宮内英二6段の2人抜きで挽回するも5人ビハインドという状況醍醐出番回ってきた。醍醐武専出身西軍七将宮川善一6段と六将・中村常男6段をそれぞれ大外刈沈めるも、3人目細川九州男6段と引き分け、続く東軍大将羽鳥輝久6段が西軍三将・松本安市6段の得意とする大外刈敗れて西軍副将広瀬巌7段と大将伊藤徳治7段を残して悠々勝利を譲った1951年9月23日(於:名古屋市金山体育館) - 第4回大会出場選手数を前大会から2人減らし両軍25名ずつで行われ同年5月に既に全日本王者となっていた醍醐はこれに東軍大将出場東軍夏井昇吉5段や伊藤信夫5段、藤森徳衛6段がそれぞれ2人抜けば西軍広川彰恩5段が2人を抜く活躍見せたほか宮川善一6段、山本博6段、中村常男6段が小まめ抜き返すなど、両軍とも互いに実力伯仲西軍1人リードのまま醍醐西軍副将松本安市7段と相対した。この試合互いに奮戦するも試合時間一杯をに戦って優劣付かず東軍西軍大将広瀬巌7段を残して敗れ戦前第1回大会から4連敗となった1952年8月17日(於:秋田市八橋球場特設会場) - 何とか一矢報いよう奮起する東軍大将石川隆彦7段を据えて副将羽鳥輝久6段、三将・醍醐という布陣第5回大会臨んだ試合内容は、東軍選手1人抜けば西軍選手1人抜き返すという一進一退熱戦で、東軍九将の夏井昇吉5段が2人抜いて棄権勝を含む)均衡崩れた東軍四将の伊藤秀雄西軍四将で同年全日本王者吉松義彦7段を優勢に降す金星上げて、更に三将の松本安市7段と引き分ける活躍見せれば続いて出場醍醐西軍副将広瀬巌7段を跳腰返大将伊藤徳治7段を釣込足で一閃し、東軍2人残し快勝というオマケ付きで終に初勝利を手にした。 1953年9月27日(於:福岡市平和台野球場特設会場) - 自身4度目出場となる全日本東西対抗大会に醍醐東軍三将として選抜されるも、前年雪辱を誓う西軍河野宗達4段明治大学出身曽根康治5段の活躍目覚ましく試合終始西軍優位進んだ醍醐は、小兵大沢慶己6段と朝飛速夫6段を立て続け破って優秀選手賞獲得した西軍十一将の河野宗円6段と相対するとこれを大外刈沈め、続く山肩敏美6段を払釣込足破り、九将・高浜正之6段と引き分けたその後東軍副将伊藤秀雄6段が湊庄市6段ら3人を抜く挽回見せるも及ばず西軍に3人残し大勝譲った1954年10月3日(於:名古屋市金山体育館) - 全日本王者として臨む第7回大会醍醐東軍三将として出場試合西軍5人目山舗公義5段の2人抜きや同9人目広川彰恩5段の3人抜きもあって、西軍リードしたまま終盤まで進んだ東軍台頭目覚ましい九将・夏井昇吉5段の3人抜き等で善戦するも、醍醐出番回ってきた時には3人ビハインド状況であった醍醐西軍六将・戸高清光6段を珍しく寝技横四方固)で破るも、続く試合巧者橋元親6段を捉え切れず引分試合終えたその後東軍副将羽鳥輝久7段と大将石川隆彦7段がそれぞれ引き分けて、大会西軍2人残し勝利した1955年10月2日(於:宮城球場特設会場) - 仙台市開催され第8回大会序盤から引分続き19試合戦った時点勝敗決したのは僅か2試合東西両軍とも1勝ずつ)という有様であった20試合目で西軍七将石橋弥一郎6段が優勢1人を抜くも、すぐに東軍六将・朝飛速夫6段が優勢でこれを抜き返し試合は再び均衡に。しかし終盤戦西軍優勢で、守山洋6段と橋本親6段の所でリードを奪うと、東軍大将醍醐西軍三将の中村常男6段の重い腰浮かせる事は適わず引き分けて、前年同様に西軍副将吉松義彦7段と大将松本安市7段を残して勝利となった1956年9月30日(於:大阪府立体育会館) - 節目30歳となった醍醐は、第9回大会には東軍大将として選抜された。東軍中央大学渡辺喜三郎4段明治大学神永昭夫4段日本大学松下三郎4段学生陣が活躍し一方西軍天理大学古賀正躬4段のほか石田洋三4段小田雄三若手奮戦した同年第1回世界選手権大会制し世界王者になった東軍副将夏井昇吉6段が西軍三将で33歳ベテラン橋元親6段に敗れ波乱もあり、続く大将醍醐橋元引き分け西軍副将吉松義彦7段と大将中村常男7段の2人残して勝利を譲った1957年9月30日(於:福岡スポーツセンター) - 最後の出場となった第10回大会醍醐は3大会連続東軍大将抜擢され副将大沢慶己6段、大将醍醐という布陣臨んだ試合内容としては引き分け多く西軍十九将の河野雅英4段東軍十五将の渡辺喜三郎4段それぞれ2人抜いて3人目引き分けた以外は互いに目を見張る活躍無かった醍醐吉松義彦7段との大将決選含め、六将から大将までの6試合いずれも引き分ける形となり、大会史初め東西優劣無く引き分けという結果終わった。なお、ルール変更に伴い第11回大会以降点取り試合改められたため、この大会以って抜き試合最後となったその後1963年第15回大会復活)。

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全日本東西対抗大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:13 UTC 版)

大沢慶己」の記事における「全日本東西対抗大会」の解説

1949年10月29日(於:大阪国技館) - 戦後初めての大会となった第3回大会東軍西軍それぞれ27名ずつの抜き試合形式行われ大沢東軍十四将として出場した試合序盤から、東軍金子泰興四段が3人を抜けば、すぐに西軍吉田広一五段が3人を抜き返すという一進一退の攻防であったが、橋元親七段の活躍等で抜き出西軍試合優位に進めたまま大沢出番回ってきた。ここで大沢竹下忠次六段優勢に破り丸山淳一五段を内股透転がし3人目朝飛速夫六段とは引き分けて、東軍1人ビハインドまで持ち直した。しかし、その後西軍岡本信六段の3人抜きで大きくリード許し東軍宮内英二六段副将務めた大沢盟友醍醐敏郎六段2人抜きで一矢報いるも、最後大将羽鳥輝久六段松本安市六段大外刈敗れ西軍副将広瀬巌七段と大将伊藤徳治七段が不戦悠々勝利を手にした。 1951年9月23日(於:名古屋市金山体育館) - 第4回大会出場選手数を前大会から2人減らし両軍25名ずつで行われ大沢はこれに東軍十三将で出場東軍夏井昇吉五段や伊藤信夫五段が、西軍広川彰恩五段が各々2人を抜く活躍見せ大沢西原基之六段との十三同士戦いになった。ここで大沢西原体落破り、続く2人目に激突したのは前大会で大活躍した岡本信六段であったが、首尾よくこれと引き分け東軍リードもたらした試合その後東軍藤森徳衛六段2人を抜く活躍見せたが、一方で西軍宮川善一六段山本博六段中村常男六段小まめ抜き返し最後東軍大将醍醐敏郎六段西軍副将松本安市七段と引き分け東軍西軍大将広瀬巌七段を残してまたしても敗れ結果となった1952年8月17日(於:秋田市八橋球場特設会場) - 格上げ東軍八将出場した第5回大会は、東軍選手1人抜けば西軍選手1人抜き返すという試合内容で、大沢前に出場した東軍九将の夏井昇吉五段が2人抜いて棄権勝を含む)均衡崩れ、更に大沢夏井破った伊勢茂一六段相手優勢勝を収め次いで岡本信六段とは引き分けた試合その後抜きつ抜かれつ繰り返し最後東軍大将前年全日本王者醍醐敏郎六段西軍副将広瀬巌七段、大将伊藤徳治七段を立て続け破って気を吐き東軍石川隆彦七段と羽鳥輝久七段を残して勝利。全日本東西対抗大会5回目にして、初め東軍頭上栄冠飾られた。 1953年9月27日(於:福岡市平和台野球場特設会場) - 4度目出場となる大沢東軍五将としてこれに臨んだが、雪辱を誓う西軍河野宗達四段明治大学鳴らした曽根康治五段の活躍目覚ましく試合終始西軍優位進んだ西軍十一将の河野宗円六段大沢払腰に、続く朝飛速夫六段小外掛に抜く快進撃見せて優秀選手賞獲得東軍は三将の醍醐六段2人を、副将伊藤秀雄が3人を抜く挽回見せるも及ばず西軍に3人残し大勝譲った1957年9月30日(於:福岡スポーツセンター) - 大沢自身4大振り出場となった第10回大会では東軍副将抜擢され副将大沢大将醍醐という布陣臨んだ試合内容としては引き分け多く西軍十九将の河野雅英四段東軍十五将の渡辺喜三郎四段それぞれ2人抜いて3人目引き分けた以外は目を見張るような活躍無かった大沢中村常男六段との副将同士試合含め、六将から大将までの6試合いずれも引き分ける形となり、大会史初め東西優劣無く引き分けという結果終わった

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