全日本での活躍
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講道館での昇段歴段位年月日年齢入門1941年11月8日 15歳 初段1941年11月15日 15歳 二段1943年3月12日 17歳 三段1944年9月14日 18歳 四段1946年9月12日 20歳 五段1948年5月24日 22歳 六段1953年1月30日 26歳 七段1961年5月2日 35歳 八段1971年5月1日 45歳 九段1992年4月28日 66歳 十段2006年1月8日 79歳 戦後を振り返り「柔道をやっている場合ではなく、食べていくのに精一杯だった」と大沢。柔道を生業にするつもりなど更々無かった大沢は1949年に玉塚証券(のちのみずほ証券)に入社し、その後は会社員をしながら講道館へ通って稽古に汗を流した。同年5月の第2回全日本選手権大会に関東代表で初出場すると、初戦で東北の島谷一美六段に釣込腰で勝利したが、2回戦で柔道王・木村政彦七段の崩上四方固に屈した。10月に大阪大国技館で開催の第3回全日本東西対抗大会には東軍十四将として出場し、竹下忠次六段を優勢勝、丸山淳一六段を得意の内股透に破り、続く朝飛速夫六段とは引き分ける活躍を見せて優秀選手に選ばれた。このほか、11月にオープンゲームとして開催された国民体育大会にも千葉県代表として出場している。身長167cm・体重67kgの小躯ながら華麗な動作や天下一と言われた足技を武器に、絶妙な体捌きから繰り出される内股透や送足払、袖釣込腰、体落にも長じて、その変化に富んだ技や素早い動きから“今牛若丸”“昭和の小天狗”等と呼ばれた。 選手としてもこの頃が全盛期で、体重無差別で行われる全日本選手権大会には計4度出場し、1950年大会では元選手権者である大豪・松本安市六段と相対して一本を許さず、僅差の判定で敗れたものの満場の観衆を湧かせた。1951年は怪我のため出場できなかったが、1952年大会では熊田吉夫五段・遠藤栄四段を相手に2回戦を勝ち抜いて3回戦で吉松義彦六段の大外刈に敗れたもののベスト8に残る活躍を見せ、大男達を次々となぎ倒す大沢の姿は同じく小兵として活躍した朝飛速夫と共に人気の的となった。また全日本選手権と並ぶ檜舞台の全日本東西対抗大会では、名古屋市で開催された1951年大会には東軍十三将で出場し西原基之六段を体落で抜いて2人目の岡本信晴六段と引き分け敢闘賞を、秋田市で開催の1952年大会には東軍八将で出場し伊勢茂一六段を優勢勝で抜いて前年同様2人目に岡本信晴六段と引き分け技能賞を、それぞれ受賞している。一方会社員としては、証券会社で入社2ヵ月ながら“場立ち”を務めたが、独特のジェスチャーを覚え切れるわけもなく、伝票が毎日合わずに社員全員で残業する羽目に。次第に他の社員に申し訳なく思って嫌気が差していた頃、後述の通り嘉納履正館長の勧めで1951年より創設間もない講道館研修員を任ぜられ、更に翌52年には南米での柔道指導の話もあり、大沢は渡りに船とばかりこの話に飛び付いて3年務めた会社を退職した。
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