全日本での活躍とは? わかりやすく解説

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全日本での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:13 UTC 版)

大沢慶己」の記事における「全日本での活躍」の解説

講道館での昇段段位年月日年齢入門1941年11月8日 15歳 初段1941年11月15日 15歳 二段1943年3月12日 17歳 三段1944年9月14日 18歳 四段1946年9月12日 20歳 五段1948年5月24日 22歳 六段1953年1月30日 26歳 七段1961年5月2日 35歳 八段1971年5月1日 45歳 九段1992年4月28日 66十段2006年1月8日 79戦後振り返り柔道やっている場合ではなく食べていくのに精一杯だった」と大沢柔道生業にするつもりなど更々無かった大沢1949年に玉塚証券(のちのみずほ証券)に入社しその後会社員しながら講道館通って稽古汗を流した同年5月第2回全日本選手権大会関東代表で初出場すると、初戦東北島谷一美六段釣込腰勝利したが、2回戦柔道王・木村政彦七段の崩上四方固屈した10月大阪大国技館開催第3回全日本東西対抗大会には東軍十四将として出場し竹下忠次六段優勢勝、丸山淳一六段を得意の内股透破り、続く朝飛速夫六段とは引き分ける活躍見せて優秀選手選ばれた。このほか、11月オープンゲームとして開催され国民体育大会にも千葉県代表として出場している。身長167cm・体重67kgの小躯ながら華麗な動作天下一と言われ足技武器に、絶妙な体捌きから繰り出される内股透送足払袖釣込腰体落にも長じて、その変化に富んだ技や素早い動きから“今牛若丸”“昭和小天狗”等と呼ばれた選手としてもこの頃全盛期で、体重無差別行われる全日本選手権大会には計4度出場し1950年大会で元選手権者である大豪松本安市六段相対して一本許さず僅差判定敗れたものの満場観衆を湧かせた。1951年怪我のため出場できなかったが、1952年大会で熊田吉夫五段・遠藤栄四段相手2回戦勝ち抜いて3回戦吉松義彦六段大外刈敗れたもののベスト8に残る活躍見せ大男達を次々となぎ倒す大沢の姿は同じく小兵として活躍した朝飛速夫と共に人気の的となった。また全日本選手権と並ぶ檜舞台全日本東西対抗大会では、名古屋市開催され1951年大会には東軍十三将で出場し西原基之六段体落抜いて2人目の岡本信六段引き分け敢闘賞を、秋田市開催1952年大会には東軍八将出場し伊勢茂一六段優勢勝で抜いて前年同様2人目に岡本信六段引き分け技能賞を、それぞれ受賞している。一方会社員としては、証券会社入社2ヵ月ながら“場立ち”を務めたが、独特のジェスチャー覚え切れるわけもなく、伝票毎日合わず社員全員残業する羽目に。次第他の社員申し訳なく思って嫌気差していた頃、後述通り嘉納履正館長勧め1951年より創設間もない講道館研修員を任ぜられ、更に翌52年には南米での柔道指導の話もあり、大沢渡りに船とばかりこの話に飛び付いて3年務めた会社退職した

※この「全日本での活躍」の解説は、「大沢慶己」の解説の一部です。
「全日本での活躍」を含む「大沢慶己」の記事については、「大沢慶己」の概要を参照ください。

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