柔道家として
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1990年、埼玉大学進学後の全日本体重別選手権52 kg級決勝で、植田睦に敗北した。12月の福岡国際女子柔道選手権52 kg級で初優勝を果たす。1991年、全日本体重別選手権52 kg級で植田睦に再度敗北し、世界代表の座を奪われる。12月の福岡国際女子柔道選手権52 kg級で2連覇を果たす。1992年バルセロナオリンピック代表最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選手権にて、ライバル植田睦に決勝で僅差判定勝ち。初の五輪代表の座を獲得。7月31日、バルセロナオリンピックにおいて、52 kg級決勝で地元スペインのアルムデナ・ムニョスに惜敗するも銀メダルを獲得した。12月の福岡国際52 kg級決勝でムニョスにリベンジを果たして3連覇を達成した。 1993年、広島国際女子柔道選手権大会から階級を56 kgに変更し、56 kg世界チャンピオン、五輪2位のニコラ・フェアブラザーに内股で一本勝ち。これをきっかけに56 kgに転向したといわれている。1994年、56 kg級に転向するも国内では立野千代里、菅原教子に敗戦し、日本代表の座から遠のいた。1995年、全日本選抜体重別選手権56 kg級で大塚雅子に内股で一本勝ちし、幕張世界選手権日本代表となる。同年10月の幕張世界選手権では1回戦敗退。1996年、2月のパリ国際決勝で、当時の世界女王ドリウリス・ゴンザレスに勝ち4度目の大会制覇を達成した。1996年アトランタオリンピック最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選手権56 kg級決勝で、立野千代里に僅差判定勝ちし、2度目の五輪代表となる。同年8月のアトランタオリンピックでは、準々決勝で鄭善溶に惜敗し気持ちが切り替えられず敗者復活戦に挑み惨敗、引退を決意した。
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柔道家として
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帰宅部だった中学3年生(15歳)の頃に、町道場で柔道を始めた。 柔道部がない女子高校に進学したため、町道場で柔道を続けた。大学・実業団入りを勧める人もあったが、組織ではなく町道場で自由にやっていたかったという。町道場は学校の柔道部と異なり厳しい体罰を受けることはなく、町道場の所属であることから柔道の総本山であった講道館からは距離を置かれていた、と神取は語っている。 その当時、日本の柔道界では講道館&全日本柔道連盟対全日本学生柔道連盟の内紛の最中であった。これは町道場対主力選手を抱える大学柔道およびOBの抗争とも言われ、首都圏で町道場を営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は、講道館&全日本柔道連盟の主力メンバーは町道場勢だった、と述べている。 1983年から全日本選抜柔道体重別選手権(66kg級)3連覇、1984年世界柔道選手権大会3位、1983年の第1回福岡国際女子柔道選手権大会2位、1985年第3回福岡国際3位などの成績を収めた。 柔道で1988年ソウルオリンピックを目指すにはまだ3年という期間があり、その間柔道へのモチベーションが保てないと判断し、ソウル五輪選考を待たずにプロレスラー転向を決意する。 1986年に旗揚げされたジャパン女子プロレスへの入門の経緯については、周囲の勧めという説と、神取本人が履歴書をジャパン女子プロレスに送られた、と語っている文献があった。2018年の文献では、もしプロレスラーをやっていなかったらトレーニングジムのインストラクターをやっていただろうと神取本人が語っている 2021年7月14日にYoutubeぶるちゃんねるBULLCHANNELにアップロードされた動画中で、神取本人はブル中野を相手にさらに詳細なところを述懐した。それによると、神取の競技引退の意向を知った柔道関係者から「性格的にもプロ向きだから、プロレスに行けよ」と言われた。神取は「相手をいかに倒すか」柔道をやっていた身として「相手の技を受ける」プロレスを斜めに見ており、プロレス入りのつもりはなかった。しかしジャパン女子プロレスという新団体が選手を募集していることを知った柔道仲間が履歴書を送ってしまい、自宅に新団体の社長から電話がかかってきたことから団体側と面会。新団体は「アマチュア選手がメダルを取ってそれで食べて行けるのか」といったところから神取に話をしてきた。結果、神取は3年間やって、次の世界に行こうという心づもりでプロレス入りしたという。 世界柔道選手権幕張大会直前の『全柔連だより』1995年9月1日号に講道館内に本部を置く全日本柔道連盟から執筆を依頼された。『'95世界柔道選手権大会に期待するもの』というページに掲載され、1ページに5人、その中の1人であった。神取のメッセージは『自分の力を信じるしかないよ』と題された。同大会には直前に総合格闘技L-1で神取と対戦したグンダレンコ・スベトラーナ(ロシア)も出場していたがそのことには触れられていない。
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柔道家として
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1931年3月に中央大学を卒業後は旧制福島中学校(現在の県立安積高校)の教職のち兵役に服し、陸軍予備士官学校教官や宮内省皇宮警察を経て、1933年には警視庁と母校・中央大学の柔道師範に迎えられた。この間1932年5月に柔道教士号を受けたほか、後進の指導に当たる傍ら選手としても大会に精力的に出場し、1931年10月の第2回全日本選士権大会には最高峰の専門壮年前期の部への出場の機会を得、初戦で山口の草野斌4段を降したが、準決勝戦では“猛虎”と知られた牛島辰熊5段と相対して牛島得意の寝技に持ち込まれ崩上四方固に敗れた。1934年には5月の皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会に当時の柔道家にとって最高の栄誉である指定選士の1人として選ばれ、予選リーグ戦で牛島6段のほか遠藤清6段、大谷晃5段との総当たり戦に。牛島との試合は相手の体調不良もあり優勢勝を果たして雪辱、遠藤にも優勢で勝利したが、大谷に優勢負を喫して天覧はならず。同年9月に拓務省の主催で開催された内地と外地との対抗試合には内地軍6将として臨んだが、この試合は内地軍8将の飯山栄作5段が外地軍大将の神田久太郎6段を内股に降して内地軍は7人残しの大勝を収め、菊池の出番は回ってこなかった。1936年4月の第1回全日本東西対抗大会は西軍の木原辰夫6段と引き分け、35歳での出場となった1940年6月の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では初戦で白銀一司5段を大内刈返で宙に舞わせたが、2回戦で早稲田大学の尾崎稲穂5段の小外掛に屈した。 菊池は義父に当たる永岡秀一や曽根幸蔵らと共に警視庁の警察官を全国警察大会を導いたほか、同庁指導要綱の「基本」制定と形の訓練に汗を流し、また中央大学の学生には東京学生大会や大日本武徳会主催の全国青年演武大会で勝利を齎(もたら)すなど多くの後進の指導に当たって、柔道界での普及・振興に対する情熱は戦後も褪せる事無く45年間もの永きに渡り続けられた。地方での大会が開催される際、連盟や大会主催者から交通費の支給が無いと現地には赴かない柔道関係者が大勢を占める中で、菊池は「柔道家たるもの、地方であっても大会には顔を出すべき」との信念で、身銭を切ってまでも大小問わず地方大会に足繁く通っていた。柔道を論ずれば、燃え出る情熱に夜を徹する事もしばしばであったという。剛直な性と歯に衣着せぬ発言から“直言居士”とも呼ばれ、相手の肺腑を抉る風刺・警句は柔道関係者を辟易させて少なからず敵を作った事は周囲の誰もが認める所だが、柔道評論家のくろだたけしは「決して間違った事は言わず、その直言はまさに痛快とも言うべきもので、柔道界にとっては極めて得難い人物だった」と語っている。
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柔道家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 01:07 UTC 版)
講道館での昇段歴段位年月日(年齢)入門1915年4月18日(17歳) 初段1915年11月2日(18歳) 2段1916年11月4日(19歳) 3段1918年1月13日(20歳) 4段1920年1月11日(22歳) 5段1924年4月25日(26歳) 6段1929年1月13日(31歳) 7段1936年2月22日(38歳) 8段1946年5月4日(48歳) 前述の通り早稲田大学入学と共に上京した石黒は1915年4月付で講道館にも入門し、大学と講道館の両方で精進した。同年11月に初段、翌16年11月に2段、1918年1月には大学柔道部で同級生の居藤高季と共に3段に昇段している。身長169 cm、体重95 kgと当時としてはかなり大柄な体格ながら小内刈や大内刈、小外刈など足技のほか体落や釣込腰など多彩な立技を器用に使いこなし、寝ても絞技、関節技、抑込技のいずれでも技量は群を抜いていた。早大在学中にその茫洋とした風体から旦那と同級生に呼ばれ、晩年まで永く石黒の異名と認識された。 石黒の代名詞とも言える空気投は、三船久蔵が発明し永岡秀一らが得意とした空気投(いわゆる隅落)とはやや異なり、「互いに右自然体に組んで相手が前隅に崩れた時に、その力を利用して引き付けながら自分の体を安定させ、自分の右足を相手の左足近くに踏み出しながら円を描くように相手を自分の左後隅へ捻り落とす」「その際、足も腰も背中も相手に接触する事はない」と著書に紹介されている。この技は大学後輩の鷹崎正見が空気投と名付け、石黒自身は三船発明の空気投との混同を避けて“前隅落”と称している。川石酒造之助は早稲田大学卒業年が2年あとだが、川石メソッドの空気投は浮落の変化技とされ、この技である。 鷹崎とは早稲田の石黒・鷹崎として当時の学生柔道界はもとより全国柔道界でも名を馳せ、石黒自身「あまり多くの試合に出たので覚えきれない」と述べているものの、当時の有名な大会への出場記録は確認できていない。ただし在学中より近隣の法政大学や拓殖大学、慈恵医専等で教師を務め、卒業後には警視庁柔道師範に任ぜられている事からも、その卓越した実力を窺い知ることができる。 1923年に関東大震災が発生すると、復興に10年は要すと判断した石黒は欧州での柔道指導を思い立って翌1924年に渡仏。この決断が欧州における柔道普及や同地での石黒の名を広める一方、後々には石黒自身の昇段を妨げて講道館との軋轢を生むきかっけとなった。 フランスではソルボンヌ大学のほかパリ警察署や軍隊で柔道を指導し、ルーマニアでは体育大学や陸軍の教官を務める傍ら国王や貴族の御前で演武をして同国最高の栄誉とされるジョン・ドヌール勲章を拝授。エジプトでは近衛兵や警察学校で指導に当たっている。活動の拠点としたパリでは柔道指南所を設け、現地在住の画家である藤田嗣治初段(のち2段)と親交を結んで幾度か柔道のデモンストレーションをおこなったほか、同時に柔道の強さを宣伝するためレスラーやボクサーとの異種格闘技戦を行っている。約10年に及ぶ欧州滞在の期間中には講道館より6段位に列挙された。 一方で、芸術の都・パリらしく洋画を学び、サロンにも出品して度々入賞を果たすなど芸術家としての片鱗も見せている。 1933年にボクシングの世界王者・エミル・ブラドネル一行の監督として帰朝。その後は三鷹航空や三井物産で柔道師範に着任したものの講道館での機関誌編集長等に軸足を置き、また全日本選士権等に際しては朝日新聞で事前の大会展望や大会後の論評を寄稿し、それらの中では柔道専門家としての見識を基にした解説に加えユーモア溢れる語り口を垣間見る事が出来る。戦後は1946年5月に8段を許され、その独特の語り口が評判となってNHKラジオのとんち教室にレギュラー出演。 しかし1950年代に入ると同年代の大家達が講道館9段に昇段する中、石黒は8段のまま据え置かれた。これは一般に、講道館の斡旋や推薦ではなく、石黒のように自らの意志で日本を飛び出し海外で柔道指導を行った者に対し、講道館が冷飯を食わせるという措置を取ったためと解されている。普段温厚な石黒もこの9段問題では講道館に反感を示したようで、1960年代に講道館の審議員に着任するもほぼ有名無実と化して次第に講道館とは距離を置くようになっていった。これに同情した丸山三造の取り計らいで当時の大日本武徳会大野熊雄理事長から武徳会10段位を授与されたほどであった。 嘉納治五郎や永岡秀一、宮川一貫、山崎亘、中野正三らを生涯の師と仰ぎ、講道館柔道を世界に広めたい一心で普及活動に尽力した石黒が、皮肉にもその普及活動が元で相応の評価を受けることなく、講道館と仲違いのまま生涯を終える結果となった点は特筆される。
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