柔道家としてとは? わかりやすく解説

柔道家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:46 UTC 版)

溝口紀子」の記事における「柔道家として」の解説

1990年埼玉大学進学後の全日本体重別選52 kg決勝で、植田睦敗北した12月福岡国際女子柔道選手権52 kg級で初優勝を果たす。1991年全日本体重別選52 kg級で植田睦再度敗北し世界代表の座を奪われる12月福岡国際女子柔道選手権52 kg級で2連覇を果たす。1992年バルセロナオリンピック代表最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選にて、ライバル植田睦決勝僅差判定勝ち。初の五輪代表の座を獲得7月31日バルセロナオリンピックにおいて、52 kg決勝地元スペインアルムデナ・ムニョス惜敗するも銀メダル獲得した12月福岡国際52 kg決勝ムニョスリベンジ果たし3連覇達成した1993年広島国際女子柔道選手権大会から階級56 kg変更し56 kg世界チャンピオン五輪2位ニコラ・フェアブラザー内股一本勝ち。これをきっかけ56 kg転向したといわれている。1994年56 kg級に転向する国内では立野千代里菅原教子敗戦し、日本代表の座から遠のいた。1995年全日本選抜体重別選56 kg級で大塚雅子内股一本勝ちし、幕張世界選手権日本代表となる。同年10月幕張世界選手権では1回戦敗退1996年2月パリ国際決勝で、当時世界女王ドリウリス・ゴンザレスに勝ち4度目大会制覇達成した1996年アトランタオリンピック最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選56 kg決勝で、立野千代里僅差判定勝ちし、2度目五輪代表となる。同年8月アトランタオリンピックでは、準々決勝鄭善溶惜敗気持ち切り替えられ敗者復活戦挑み惨敗引退決意した

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柔道家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:08 UTC 版)

神取忍」の記事における「柔道家として」の解説

帰宅部だった中学3年生15歳)の頃に、町道場柔道始めた柔道部がない女子高校に進学したため、町道場柔道続けた大学実業団入り勧める人もあったが、組織ではなく町道場自由にやっていたかったという。町道場学校柔道部異なり厳し体罰を受けることはなく、町道場所属であることから柔道総本山であった講道館からは距離を置かれていた、と神取は語っている。 その当時日本柔道界では講道館&全日本柔道連盟全日本学生柔道連盟内紛最中であった。これは町道場主力選手抱え大学柔道およびOB抗争とも言われ首都圏町道場営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は、講道館&全日本柔道連盟主力メンバー町道場勢だった、と述べている。 1983年から全日本選抜柔道体重別選手権(66kg級)3連覇1984年世界柔道選手権大会3位1983年第1回福岡国際女子柔道選手権大会2位1985年第3回福岡国際3位などの成績収めた柔道1988年ソウルオリンピック目指すにはまだ3年という期間があり、その間柔道へのモチベーション保てないと判断しソウル五輪選考待たずプロレスラー転向決意する1986年旗揚げされたジャパン女子プロレスへの入門経緯については、周囲勧めという説と、神取本人履歴書ジャパン女子プロレス送られた、と語っている文献があった。2018年文献では、もしプロレスラーをやっていなかったらトレーニングジムインストラクターをやっていただろうと神取本人語っている 2021年7月14日YoutubeぶるちゃんねるBULLCHANNELにアップロードされた動画中で、神取本人ブル中野相手にさらに詳細なところを述懐した。それによると、神取の競技引退意向知った柔道関係者から「性格的にプロ向きだから、プロレス行けよと言われた。神取は「相手をいかに倒すか」柔道をやっていた身として「相手の技を受ける」プロレス斜めに見ており、プロレス入りのつもりはなかった。しかしジャパン女子プロレスという新団体選手募集していることを知った柔道仲間履歴書送ってしまい、自宅に新団体社長から電話かかってきたことから団体側と面会。新団体は「アマチュア選手メダル取ってそれで食べて行けるのか」といったところから神取に話をしてきた。結果、神取は3年間やって、次の世界行こうという心づもりプロレス入りしたという。 世界柔道選手権幕張大会直前の『全柔連だより』1995年9月1日号に講道館内に本部を置く全日本柔道連盟から執筆依頼された。『'95世界柔道選手権大会期待するもの』というページ掲載され1ページに5人、その中の1人であった。神取のメッセージは『自分の力を信じしかないよ』と題された。同大会には直前総合格闘技L-1で神取と対戦したグンダレンコ・スベトラーナロシア)も出場していたがそのことには触れられていない

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柔道家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 02:45 UTC 版)

菊池揚二」の記事における「柔道家として」の解説

1931年3月中央大学卒業後は旧制福島中学校現在の県立安積高校)の教職のち兵役服し陸軍予備士官学校教官宮内省皇宮警察経て1933年には警視庁母校中央大学柔道師範迎えられた。この間1932年5月柔道教士号受けたほか、後進の指導に当たる傍ら選手としても大会精力的に出場し1931年10月第2回全日本選士大会には最高峰専門壮年前期の部への出場機会を得、初戦山口草野4段降したが、準決勝戦では“猛虎”と知られ牛島辰熊5段と相対して牛島得意の寝技持ち込まれ崩上四方固敗れた1934年には5月皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会当時柔道家にとって最高の栄誉である指定選士1人として選ばれ予選リーグ戦で牛島6段のほか遠藤清6段、大谷晃5段との総当たり戦に。牛島との試合相手体調不良もあり優勢勝を果たし雪辱遠藤にも優勢勝利したが、大谷優勢負を喫して天覧はならず同年9月拓務省主催開催され内地外地との対抗試合には内地軍6将として臨んだが、この試合内地軍8将の飯山栄作5段が外地軍大将神田久太郎6段を内股降して内地軍は7人残し大勝収め菊池出番回ってこなかった。1936年4月第1回全日本東西対抗大会西軍木原辰夫6段と引き分け35歳での出場となった1940年6月紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では初戦白銀一司5段を大内刈返で宙に舞わせたが、2回戦早稲田大学尾崎稲穂5段の小外掛屈した菊池義父に当たる永岡秀一曽根幸蔵と共に警視庁警察官全国警察大会導いたほか、同庁指導要綱の「基本制定と形の訓練汗を流し、また中央大学学生には東京学生大会大日本武徳会主催全国青年演武大会で勝利を齎(もたら)すなど多く後進の指導当たって柔道界での普及振興対す情熱戦後褪せる事無く45年間もの永き渡り続けられた。地方での大会開催される際、連盟大会主催者から交通費支給が無いと現地には赴かない柔道関係者大勢占める中で、菊池は「柔道家たるもの、地方であっても大会には顔を出すべき」との信念で、身銭切ってまでも大小問わず地方大会足繁く通っていた。柔道論ずれば燃え出る情熱夜を徹する事もしばしばであったという。剛直な性と歯に衣着せぬ発言から“直言居士”とも呼ばれ相手肺腑抉る風刺警句柔道関係者辟易させて少なからず敵を作った事は周囲誰もが認める所だが、柔道評論家のくろだたけしは「決し間違った事は言わず、その直言はまさに痛快とも言うべきもので、柔道界にとっては極めて得難い人物だった」と語っている。

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柔道家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 01:07 UTC 版)

石黒敬七」の記事における「柔道家として」の解説

講道館での昇段段位年月日年齢入門1915年4月18日17歳初段1915年11月2日18歳2段1916年11月4日19歳3段1918年1月13日20歳4段1920年1月11日22歳) 5段1924年4月25日26歳) 6段1929年1月13日31歳) 7段1936年2月22日38歳) 8段1946年5月4日48歳前述通り早稲田大学入学と共に上京した石黒1915年4月付で講道館にも入門し大学講道館両方精進した同年11月初段、翌16年11月2段1918年1月には大学柔道部同級生居藤高季と共に3段昇段している。身長169 cm体重95 kg当時としてはかなり大柄な体格ながら小内刈大内刈小外刈など足技のほか体落釣込腰など多彩な立技器用に使いこなし寝て絞技関節技抑込技のいずれでも技量群を抜いていた。早大在学中にその茫洋とした風体から旦那同級生呼ばれ晩年まで永く石黒異名認識された。 石黒代名詞とも言える空気投は、三船久蔵発明し永岡秀一らが得意とした空気投いわゆる隅落)とはやや異なり、「互いに自然体組んで相手が前隅に崩れた時に、その力を利用して引き付けながら自分の体を安定させ、自分右足相手左足近く踏み出しながら円を描くように相手自分の左後隅へ捻り落とす」「その際、足も腰も背中相手接触する事はない」と著書紹介されている。この技は大学後輩鷹崎正見空気投名付け石黒自身三船発明空気投との混同避けて“前隅落”と称している。川石酒造之助早稲田大学卒業年が2年あとだが、川石メソッド空気投浮落変化技とされ、この技である。 鷹崎とは早稲田石黒鷹崎として当時学生柔道界はもとより全国柔道界でも名を馳せ石黒自身「あまり多く試合出たので覚えきれない」と述べているものの、当時有名な大会への出場記録確認できていない。ただし在学中より近隣法政大学拓殖大学慈恵医専等で教師務め卒業後には警視庁柔道師範に任ぜられている事からも、その卓越した実力窺い知ることができる。 1923年関東大震災発生すると、復興10年要す判断した石黒欧州での柔道指導思い立って1924年渡仏。この決断欧州における柔道普及同地での石黒の名を広め一方後々には石黒自身昇段妨げて講道館との軋轢生むきかっけとなったフランスではソルボンヌ大学のほかパリ警察署や軍隊柔道指導しルーマニアでは体育大学陸軍の教官務め傍ら国王貴族御前演武をして同国最高の栄誉とされるジョン・ドヌール勲章を拝授。エジプトでは近衛兵警察学校指導当たっている。活動拠点としたパリでは柔道指南所設け現地在住画家である藤田嗣治初段(のち2段)と親交結んで幾度か柔道デモンストレーションおこなったほか、同時に柔道強さ宣伝するためレスラーボクサーとの異種格闘技戦行っている。約10年に及ぶ欧州滞在の期間中には講道館より6段位列挙された。 一方で芸術の都パリらしく洋画学びサロンにも出品して度々入賞を果たすなど芸術家として片鱗見せている。 1933年ボクシング世界王者・エミル・ブラドネル一行監督として帰朝その後三鷹航空三井物産柔道師範着任したものの講道館での機関誌編集長等に軸足を置き、また全日本選士に際して朝日新聞事前大会展望大会後論評寄稿し、それらの中では柔道専門家として見識を基にした解説加えユーモア溢れ語り口垣間見る事が出来る。戦後1946年5月に8段を許され、その独特の語り口評判となってNHKラジオとんち教室レギュラー出演。 しかし1950年代に入ると同年代大家達が講道館9段昇段する中、石黒は8段のまま据え置かれた。これは一般に講道館斡旋推薦ではなく石黒のように自らの意志日本飛び出し海外柔道指導行った者に対し講道館冷飯食わせるという措置取ったためと解されている。普段温厚な石黒もこの9段問題では講道館反感示したようで、1960年代講道館審議員に着任するもほぼ有名無実化して次第講道館とは距離を置くようになっていった。これに同情した丸山三造の取り計らい当時大日本武徳会大野熊雄理事長から武徳会10段位を授与されたほどであった嘉納治五郎永岡秀一宮川一貫山崎亘、中野正三らを生涯の師と仰ぎ講道館柔道世界広めたい一心普及活動尽力した石黒が、皮肉にもその普及活動が元で相応評価を受けることなく講道館仲違いのまま生涯終え結果となった点は特筆される

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