見 (仏教)
(正見 から転送)
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仏教用語 見, ディッティ |
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パーリ語 | diṭṭhi |
サンスクリット語 | dṛṣṭi |
ベンガル語 | দৃষ্টি (Drishti) |
中国語 | 見 |
日本語 | 見 (ローマ字: ken) |
英語 | view, position |
クメール語 | ទិដ្ឋិ (UNGEGN: tetthek) |
仏教用語の見(けん、巴: diṭṭhi, 梵: dṛṣṭi)とは、哲学的な見解のこと。仏教思想において見とは、単なる命題の抽象的集合ではなく、思考、感覚、行動によって強く形づくられ影響を及ぼす、過去の体験の解釈である[1]。
正しい哲学的見解、すなわち正見(しょうけん、巴: sammā‑diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi)を習得することは、八正道の一つとして挙げられている。反対に間違った見解は邪見(じゃけん、巴: micchā-diṭṭhi, 梵: mithyā-dṛṣṭi)、悪見(あっけん)と呼ばれる。間違った見への執着を見取(ditth-upadana)という。
したがって、見に対する適切な精神的態度を持つことは、仏教の不可欠な部分と考えられている。時には正見の実践と邪見の放棄が必要とされ、また時には見(=見解)が菩提の障害と見なされることもある[2]。
位置づけ
見は志向作用(行)より起こり、そして構築されるものである。これは個人が冷静に選択できるような中立な選択肢といったものではなく、「条件付け」によって発生する症状なのである[1]。パーリ仏典において、釈迦は涅槃に達したならば「束縛、結縛、貪欲、妄執、執著、愛着、見への固執」を「超越する」と語っている[3]。
Paul Fullerは、八正道の最初の一つに挙げられている正見は、究極的には正しい見解というよりも、認知の型からの解放を目指していると解釈している[3]。
正見と邪見
正見(しょうけん, 巴: sammā‑diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi)とは八正道のひとつ。仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。
大四十経においては、釈迦は10項目の邪見を挙げ、これが「邪見である」と知ることが正見であると説く。
梵網経においては、釈迦は仏教における全ての邪見を64種類(六十二見)網羅して示している。
五悪見
阿毘達磨発智論では5つの悪見が挙げられ、これは五見、五悪見などと呼ばれる。
- 身見(有身見, sakkāya-diṭṭhi) - 結のひとつ。人我見、我見とも。五蘊を自己(我)とみなす見解。
- 辺見(antaggāha-diṭṭhi) - 常見および断見のこと。
- 邪見 (micchā-diṭṭhi)- 果報を否定する無道徳論(プーラナ・カッサパ,六師外道のひとり)。
- 見取見 - 四取への執着。
- 戒禁取見(sīlabbata-parāmāsa) - 誤った手続きへの執着。
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関連項目
脚注
注釈
出典
- ^ a b Lusthaus, Dan (2002). Buddhist Phenomenology. Routledge. p. 242, n. 46
- ^ Fuller 2005, pp. 1–2.
- ^ a b Fuller 2005, p. 2.
参考文献
- Collins, Steven (1990), Selfless persons: imagery and thought in Theravāda Buddhism, Cambridge: Cambridge University Press, ISBN 0-521-39726-X
- Fuller, Paul (2005), The Notion of Diṭṭhi in Theravāda Buddhism: The Point of View, Routledge
- Velez de Cea, J. Abraham (2013), The Buddha and Religious Diversity, Routledge, ISBN 978-1-135-10039-1
- Vetter, Tilmann (1988), The Ideas and Meditative Practices of Early Buddhism, Brill, ISBN 90-04-08959-4
外部リンク
- Canki Sutta, early discourse on views in Buddhism
- Wei-hsün Fu, Charles; Wawrytko, Sandra Ann (1994), Buddhist Behavioral Codes and the Modern World: An International Symposium, Greenwood, ISBN 978-0-313-28890-6
正見
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正見(しょうけん, 巴: sammā‑diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi)とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。 Katamā ca bhikkhave, sammādiṭṭhi? Yaṃ kho bhikkhave, dukkhe ñāṇaṃ dukkhasamudaye ñāṇaṃ dukkhanirodhe ñāṇaṃ dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammādiṭṭhi. 比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦(ドゥッカ)についての智、苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。 業自性正見(ごうじしょう-)(巴: kammassakatā sammā‑diṭṭhi) - 業を自己とする正見。生きとし生けるもの(衆生;巴: sattā)は、業(だけ)を自己の所有とする(巴: kammassakā) 業(だけ)を相続する(巴: kammadāyādā) 業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayonī) 業(だけ)を親族とする(巴: kammabandhū) 業(だけ)を依り所とする(巴: kammapaṭisaraṇā) 十事正見(巴: dasavatthukā sammā-diṭṭhi) 布施の果報はある(巴: atthi dinnaṃ) 大規模な献供に果報はある(巴: atthi yiṭṭhaṃ) 小規模な献供に果報はある(巴: atthi hutaṃ) 善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko) (善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā) (善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā) 化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi sattā opapātikā) 現世は存在する(巴: atthi ayaṃ loko) 来世は存在する(巴: atthi paro loko) この世において、正しい道を歩み、正しく行じ、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモンは存在する。(巴: atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti) 四諦正見(巴: catusaccā sammā-diṭṭhi) 苦諦についての智慧(巴: dukkhe ñāṇaṃ) 苦集諦についての智慧(巴: dukkha-samudaye ñāṇaṃ) 苦滅諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhe ñāṇaṃ) 苦滅道諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ) この正見は、以下の七種の正道によって実現される。八正道は全て正見に納まる。
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