有身見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 02:21 UTC 版)
有身見(巴: sakkāya-diṭṭhi)とは、sat (存在) + kāya (身体) + diṭṭhi (見) であり、五悪見のひとつとされている。 一般的には「各個人の信条」や、単純に「自己視点」とされ、「恒久的な存在、魂(attan)が存在するという、蘊の信条」である。仏教では魂(attan)が存在しないという無我(アナッタン)の立場を取るためである。 パーリ経典では、釈迦は以下のように有身見を記載している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}人々の持つ悪見は、どのように不適切に形成されるのか。...人々はこのように不適切に考える。 私は過去に存在したのか? 過去の私は誰だったのか? 未来に私は存在するのか? 未来の私はどうなるのか? これは私であるのか? これは私ではないのか? 私は何なのか? 私はどうなっているのか? 私はどこへ行くのか? このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見解に至る。 私には我がある 私には我がない 私の自己と知覚しているもの、それが自己である 私の自己と知覚しているもの、それは自己ではない 自己がないので、私の自己は知られない これこそが私であり、私の自己は一貫している 比丘たちよ、これらは見の棘、見の荒野、見の湾曲、見の束縛、見の足枷と呼ばれている。 —パーリ仏典, 中部 2.Sabbāsava Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project
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