後進の指導に当たる
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五輪大会後は、IOC委員としてロサンゼルス五輪に臨席していた嘉納治五郎と共にカリフォルニアでの柔道大会に参加し、小谷はその場でロサンゼルス在住の有段者を相手に15人掛を披露している。翌33年、1940年の五輪大会を東京に誘致すべく嘉納がウィーンで開催のIOC会合に赴く際には、嘉納の娘婿である鷹崎正見6段と共にこの随行役として抜擢され、5月から12月まで半年以上の長期に渡る欧州各地での柔道巡回指導の一翼を担った。満州から遠路はるばるシベリア鉄道で渡欧して始まったこの行程では、嘉納と寝食を共にしながら現地での指導やデモンストレーション等を行い、小谷の回顧に拠れば、現地の巨人連中を指導したり時には真剣試合をしたりしたが、相手をいくら投げても一度も嘉納から褒められた事は無かったという。それでもこの様子は各地の新聞に大々的に取り上げられ、「JUDO」の名は急速に広まっていった。その後、1937年12月には講道館より7段位を拝受。1939年には5月から12月まで、南米各国を指導して周った。 戦後、1946年12月に満州から引き揚げ、大阪に大阪柔道クラブを創設して約250人の後進を指導した。1949年6月より講道館に奉職して以後は、同館渉外部(現・国際部)参与や審議会審議員、道場幹事長、同指導本部長といった要職を担い、国内外を問わず斯道の普及・振興に尽力した。小谷の指導を仰いだ細川熊蔵9段に拠れば、小谷は同郷や同窓等に拘る事も無く、柔道を愛する者であれば等しく誠意を傾けて接していたという。以後、その人格と技量を買われて柔道指導のために歴訪した国は前述の欧州各国のほか、米国やフィリピン、ビルマ、カナダ等、実に十数各国にも及んだ。特に1953年から1957年迄の5年間は、毎年渡米して2カ月間米国空軍を指導する程の熱の入れ様だった。曰く、「各国の柔道人と肌を触れ合い、共に汗を流していると、これほど楽しい事は無い」「柔道衣姿が、肉親同様の親近感を思わす」との事。 高段者の中には年を重ねてからというもの柔道衣を着用しなくなる者も少なくない中で、小谷は晩年まで稽古衣に袖を通して講道館の大道場に立ち続け、実際に若者らに胸を貸して汗を流していた点は特筆される。東京都品川区南大井に居を構え、1953年から法務省矯正局教官や日本体育協会参与に就任、1968年には東海大学教授を拝命して、そちらでも門生の柔道指導に当たった。
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